カゴアミドリ

               

【箒をつくる人たち➂】中津箒・吉田慎司さん「箒で伝えたいもの」

カゴアミドリ箒展 2020 
箒職人さんたちの「個」を知る連載企画
箒をつくる人たち   -「私と箒」が歩んできた道のりをたどって –

第三回「箒で伝えたいもの」中津箒・吉田慎司さん
記事:ウイルソン麻菜
写真:カゴアミドリ

ものづくりには、二通りの人間がいる。

「つくりたい人」と「伝えたい人」だ。「つくる」という行為が好きな人は、それが人に好かれようが売れようが関係なく、「つくることが好きだからつくる」。その一方で「伝えたい人」は、自分の伝えたいことを届ける手段としてものをつくる。

それは、文章でも同じかもしれない。「書く」という行為自体が好きな物書きもいれば、何かを「伝えるために」書く人もいる。私は一体どっちだろう。北海道にアトリエをかまえる箒職人、吉田慎司さんの話を聞きながら、ふと考える。

「表現の方法は、実はなんでもよくて。箒に出会ったとき、『ちょうどいいな』って思ったんですよね」

過去を振り返りながら、吉田さんが遠くを見る。このセリフを聞けばわかるとおり、吉田さんは「伝えたい箒職人」だ。

美大生として、ものづくりの意味を考え悩んでいた頃に出会った、中津箒。吉田さんは何のために、ものづくりをするのか。その伝達方法として、“箒”の何が「ちょうどよかった」のか。

箒と文章、形は違えど同じ「表現者」として、ものづくりを通して伝えたいものを伺った。なぜ私たちは何かを表現し、人々に伝えようと思うのだろう。その先に、吉田さんが見ているものを聞くことで、箒職人のことがもっとわかる気がした。


「何のための美術なのか」を考え続けた美術学生

「どうしても、目の前にあると手を動かしちゃいますね」

そう言って、箒を編み始める吉田さん。職人さんを取材させてもらうと、細かい作業をしながら話せる人が多く、いつもすごいと思いながら話を聞いている。そのくらい、手の動きや考えることがしっかりと身体や脳内に馴染んでいるということなのだ。

現在、北海道札幌市にある「ほうきのアトリエとお店 『がたんごとん』」で、箒をつくって暮らす吉田さん。もともとは、東京都練馬区で生まれ育った都会の人だ。

「美大に行って絵と立体を学んでみたいと思ったんですけど、絵は家でも描けるので彫刻を選びました」

高校でたったひとり美術部に所属していた少年は、武蔵野美術大学の彫刻科へ入学。そこで気づいたのは、美術の技術や創作自体よりも、ものづくりの理由や、つくった先にある影響に興味があるということだった。

「つくることに快楽を覚えるよりは、『つくって何を伝えたいのか』に興味があるんですよね。だから、大学に入ってからは手を動かして立体をつくるよりも、ものづくりの先で何かを伝えようとしている“コンテンツ”と、それが周りに与える影響に興味が移っていきました」

そんな吉田さんが所属していたのが、子どもたちとものづくりを楽しむサークル。春休みや夏休みには、子どもたちを連れて茨城県の山奥で「図工教室」を開催した。

廃校になった小学校で寝泊まりしながら、薪を割り、破裂した水道管を直し、食器は自分たちで焼いたものを使う「図工教室」。羽釜でご飯を炊いて、五右衛門風呂に浸かりながら考えたのは、「“暮らし”ってどうやってつくられてきたんだっけ」ということ。

「そのサークルも、子どもが好きで入ったというより、“暮らしをつくること”がおもしろかったんですよね。当時から、彫刻とか絵っていうのは後から考えた手段であって、中身の部分に関心があったんだと思います、きっと」

何かをつくる、その目的はなんだろう。つくることで見えてくるものは、なんだろう。ものづくりの本当に根本の部分までを考え続ける日々。美大生らしい、といえばそうなのかもしれない。

美術を学び、つくることにとことん向き合う大学生活で、吉田さんのなかに芽生えたものがあった。それは、「何のための美術なのか」という感情だ。

「もともと美術って、歴史的には西洋の貴族や富裕層のための作品という側面もあって。自分のしたいものづくりはそういう方向性とは違ったんです」

日本には存在しなかった西洋美術よりも、日本古来からある、もっと身近なものづくりがないだろうか。そう考え続ける大学生が出会った、もうひとつのものが民俗学だった。


ピッタリとハマった、中津箒との出会い

口伝や生活のなかで受け継がれてきた暮らしを学ぶ民俗学。なかでも、民俗学における「ものづくり」は、日常に必要な道具を作り、愛し、生活に役立てるものづくり。民具や民芸などの暮らしと直結したものだった。

「今思えば、昔から世の中に対する疑問や不安があったんですね。地球環境だとか、政治や教育を含めた社会の仕組みとか。どうして今の形になったんだろう、どうすれば課題を解決できるんだろうって考え続けていたようなところがあって。暮らしの視点で歴史を振り返る民俗学に、その答えを求めたのかもしれませんね」

どういう経緯で人々は車に乗るようになったのだろう。各家庭で手作りされていたものが、どうして輸入物へと変わっていったんだろう。村に代々伝わってきた生活様式は、なぜ今のように変わってきたんだろう。

「まあ答えは出せないまでも、原因は学べて、じゃあこれからどういう暮らしをしていくべきなのかって考えることができたんですね」

民俗学に惹かれ、大学の民俗学資料室でアルバイトをするようになった吉田さん。あるとき、その資料室でおこなわれた展示で、中津箒に出会った。

「草と糸だけで作られていて、今も昔も暮らしのなかで使われているものづくり。とてもきれいな作りをしていて、残していきたいと思いましたね。でも、ビビッと来たっていうよりは、すごいちょうどいいな、みたいな。これなら自分も納得して取り組めるって思いました」

「こういうものづくりができたら」と、吉田さんのなかで出来上がりつつあった答えに、中津箒がきれいにハマった形だった。

中津箒には、復活の歴史がある。

神奈川県愛甲郡旧中津村の箒作りは最盛期には地域の一大産業であったが、昭和30年代、「掃除機・絨毯・海外産」の波が彼らをも襲った。

箒職人さんたちに取材をしていると、必ず出てくるこの転換期。どの地域の職人さんに聞いても、どうにも止められなかった流行や暮らしの変化は、それこそ民俗学の歴史に残るものだろう。本当に日本全国が、ものすごい勢いで変わっていった時代が見えてくるようだ。

変化の波のなかでは、生き残った箒屋のほうが少ない。中津でも、作られていた中津箒も、すべての箒屋が暖簾を下ろした。

代々中津で箒の製造・卸販売を手掛けていた家に育った柳川直子さんの元に、箒が送られてきたことがきっかけだった。戦前に暖簾分けして中津から京都に移住した箒職人の技術を受け継いでいた、柳川芳弘さんからだ。直子さんはその箒の美しさに感動して、箒作りの復活を決意したという。

そのために直子さんが立ち上げた「株式会社まちづくり山上」が、吉田さんの職場だ。吉田さんが中津箒に出会った展示も、直子さんが企画したものだった。吉田さんはまちづくり山上の社員として中津箒を作り、ギャラリー展示や販売をこなしている。

実は吉田さん、大学時代に漫画で「ちばてつや賞」を受賞し、漫画家への道が開かれていた、という過去がある。いずれは漫画家になるために、まずはアシスタントの面接を受けることになっていたのだが――。

「その当日に面接を断って、柳川芳弘さんのところに箒を習いに行っちゃったんですよね」

ええ!その場にいた全員が驚きの声を上げた。漫画家になれるかもしれなかったのに、復活に向けて動き出したばかりの箒職人の道へ?人生の大きな決断のように思えるが、吉田さんは何事もないように笑う。

「確かに人生の分かれ道って感じなんですけどね、基本的には同じだと思っていて。漫画のようなマスメディアで薄く広く伝えるか、箒のような小さなものづくりで濃度の高いものを伝えるか。漫画はたくさんの人に届く良いメディアですが、それが人の暮らしを変えるかはわからない。でも箒は、1本持ったらその人の暮らしがちょっとだけ動く。だから、その確実性を取って、漫画1,000部刷るつもりで箒を1,000本つくって届けようと思ったんです」

どうすれば伝わるか、どうすれば暮らしをつくれるか。結局、吉田さんが考えていることは「伝えること」と、その先にある「暮らし」なのだ。


「残し、伝え、届ける」ためには

「自分の箒は、我流な部分が多いんですよね」

京都の柳川さんに箒を習いに行ったものの、吉田さんは何年もそこで修行していたわけではない。

「京都で芳弘さんと弟さんに箒づくりを習ったら、あとは自分で研究して、少しずつアレンジを加えていくような形で」

一口に箒と言っても、さまざまなものがある。工芸品のようにきれいさを突き詰めたものもあれば、実用性を重視した多少荒っぽいものもある。それは代々伝わる技術のなかでも、職人個人の好みや目指すところによっても変わってくるという。

「例えば、芳弘さんが作っていたのは工芸的で細やかな箒です。でも、それとは逆に、自分は田舎の素朴さや手作り感を残したものもちょっと好き。きれいさとか素朴さとか、いろんな箒のいいところを組み合わせながら、今の暮らしに合う箒をつくっていきたいんですよね」

シンプルな道具である箒づくりにおいて、自分がアレンジできるとしたらそこだろう、と吉田さんは言う。これまで先人たちが培ってきた技術や工夫と、現代の人々が使いたいと思う箒の周波数を合わせる「チューニング」。

「でも、基本的にはもともとの形が正解なんですよ。アレンジすると大体の場合は使いづらくなるか、手間が無駄に増えるか、効率が悪くなる。本当に合理的にできてるんだなと思いますね。だからその良さを学びつつ、人に届ける方法を考えています」

人にちゃんと“届く”こと。それは吉田さんにとって、大切なことのひとつだ。それは、師匠である柳川芳弘さんの技術を持ってしても、箒屋として看板を降ろさざるを得なかったことが影響している。

「あんなにきれいな箒をつくれるほどの腕があっても、商売としてうまくいかなかった。技術が高いだけでは残っていかれないんだ、という思いが根本にあります」

吉田さんが箒をつくり始めた2000年代は、手仕事が「クラフト」と呼ばれ注目された時期だった。クラフトフェアが全国で行われ、雑誌では暮らしの道具特集が組まれていた。

「自分は芳弘さんが目指していた工芸的なビジョンから少し離れて、意識的にクラフト的なあり方のなかに居場所を作っていこうとしていた気がします。従来の工芸的な、美しいけれど敷居が高くなってしまいがちな売り方だけで、箒を残していくのは難しいだろうと考えていたから」

箒のつくりも、売る場所も、少しずつ「チューニング」していく。それは、吉田さんが箒を残し、伝え、届けるためにつくっているからだろう。

「生きるための道具と詩歌」を扱う理由

東京近郊を拠点にしていた吉田さんだが、3年前に奥さんの実家がある北海道札幌市に移住してきた。

「子育ては北海道と決めていたのと、やっぱり暮らしを考えるっていう意味では、東京より地方に住んでみたいなと思っていて」

北海道で吉田さんは、箒や暮らしを伝えるために、奥さんが開いた「ほうきのアトリエとお店『がたんごとん』」を拠点とした。お店のテーマは「生きるための道具と詩歌」。箒を中心とした道具と、詩集などの本が店内に並ぶ。


なぜ、箒と詩?お店を訪れるお客さんが必ず抱く疑問だと思う。聞いてみると、そこにも吉田さんらしい理由がしっかりとあった。

「道具ってすごく具体的なので、手に取れば行動が変えられる良さはありつつも、やっぱり伝えられる守備範囲が限られると思うんです。一方で、言葉ってすごく抽象的なもの。感覚的なところが道具とは真逆にあるのがいいなと思って、両方をお店に置いています」

具体的な「道具」と、抽象的な「言葉」。まるで対極にあるふたつだが、吉田さんの中ではちゃんととつながっている。

「今、人類史上一番“言葉が使い捨てられている“と思っていて。もともとね、言葉や文字ってすごく力や価値があるもので、昔は権力者しか持てなかったもの。でも、今はそれが普通の人にも手が届くようになって誰でも言葉を発信できるようになったけれど、今度は逆にどんどん使い捨てられている。ちゃんと背景にある意味や、その向こうにある美しさを知ってほしい。使って捨てるんじゃなくて、質があるものをずっと大切にしていきたい。それは、道具も言葉も同じだなと」

道具と言葉について、こんな共通点を見出した人が今までいただろうか。「生きるための道具と詩歌」を扱う『がたんごとん』には、食べ物など生命として“生きる”のに必要なものが置いてあるわけではない。けれど、文化を継承し、物事を奥深く見つめる“人としての生き方”の提示が、そこにはある。

「本当に心に属した詩や言葉が、道具みたいに身近にあったらいいなと思うんです。そして道具も、ただ便利なものじゃなくて、詩や言葉みたいに感情を揺さぶったり、心の奥に入っていくものだったらいい。そんなふうにアプローチを変えながら、暮らし方や生き方について問いかけていきたいんだと思います」

北海道に拠点を移したことで、これからのものづくりに何か変化はあるのだろうか。聞くと、まちづくり山上の社員としての立場も変わらないし、箒自体にも大きな変化があるわけではないという。吉田さんが、一番これから変わっていくと考えているのは、核である「伝え方」のほうだ。

「たくさん数がつくれる仕事じゃないので、やっぱり伝える密度とか関係性が大事になると思っていて。『買ってくれるなら誰でもいい』ではなくて、背景がわかる人、ちゃんと大事に使ってくれる人に売っていきたい」

東京にいれば、各地のクラフトフェアやイベントにも参加できるし、人口が多い分、箒を手に取る人の数も多いだろう。ただ、それよりも今の吉田さんが目指すのは、「土地に根付いてた伝え方」だ。そういう意味で、北海道の地で始めたお店では、新しい挑戦ができると吉田さんは言う。

「自分が生まれ育った練馬では、隣の住人の名前もわからないような町の付き合いでした。それよりも、ここでは土地に根付いた『町の箒屋』になりたいですね。何か困ったときには、インターネットで検索するんじゃなくて、相談に来てもらえるような場所。そうやってできたつながりの中で、背景や価値観を伝えていくのが、ものづくりには合っているんじゃないかなって考えてます」


その先にあるのは「人を傷つけない暮らし」
「最近ね、中古物件を買って改装し始めたんです。古い家を直して、畑で何か育てたり、冬にはストーブを作ってみてもいいな、なんて考えてて」

北海道に拠点を移し、まさに自身の“暮らし”をつくっている吉田さん。都会で生まれ育った吉田さんが、どうしてそこまで「自分でつくる暮らし」にこだわるのか、不思議だった。

「そうですね。大学時代から『人を傷つけないで暮らしたい』と思っていたんですよね。日本に暮らしていると感じにくいけど、コーヒーを飲むのにも、服を買うにも、裏では過酷な環境の人がいるんじゃないかって考えてしまう人だったんです。それを考えたときに『じゃあ、できることは自分でやろう』ってなっていきましたね」

そういう面でも、北海道には参考になる「暮らし」が詰まっている、と吉田さんは言う。

「うちの隣に90歳のおばあちゃんが住んでいるんですけど、冬に漬物を8樽ぐらい漬けるんですよ。冬の越し方が本気ですよね。妻のおばあちゃんも縫い物が上手で、ちょっとしたものは自分で作れちゃう。そういう“昔から続いてきた文化”って、都会で育った自分はあまり触れてこなかったのでおもしろいです。とても、無理がないな、と思ってます」

「無理のない暮らし」と、吉田さんは何度かつぶやいた。できることは自分たち自身で作っていく、無理のない暮らし。その先に、誰も傷つけない暮らしがあるのではないか。

箒を編み、家を改装し、菌を増やしてパンを焼く。そのうち、山に籠もって仙人のような暮らしができそうですね、と言うと、笑いながら首を振った。

「いいなって思うことがあったら人に伝えたいので、完全に山に籠もるのは違うんですよね。どこかで人とつながっていたいし、伝えた先でいいものを作りたい。ナチュラルな暮らしが好きっていうよりは、自分のやっていることに齟齬があると誇りを持って箒を売れないだけなんです」

しかも、吉田さんは意外なことに、自然にあまり興味がない。「夕日とか景色とか、正直どうでもいいんです」という言葉には、思わず笑ってしまった。こんなナチュラルライフを送っているのに!

「人間が選んできたものの結果、今の世界ができている」という民俗学での学びから、吉田さんが考えた、これからの“無理のない”暮らしの在り方。それを伝えることが使命であり、そのために吉田さんは箒をつくる。

「箒づくり自体が好きっていうよりは、『このまま進んでいったら危ないんじゃないかな』とか『こっちのほうがいいんじゃない?』ということを、人に伝えたいんだと思います」

箒は毎日の生活を豊かにし、家のなかをきれいにしてくれる暮らしの道具だ。毎日床を掃く習慣がつけば、日々の暮らしも少しずつ変わっていく。吉田さんの話を聞きながら、その「日々」の先にある「未来」を想う。この箒を手に取った人々が選び取る未来を、いつかの民俗学ではどのように記すのだろうか。

 

【連載インタビュー】箒をつくる人たち(全4回)
第1回 長野・松本箒  米澤資修さん
第2回 栃木・鹿沼箒  増形早苗さん
第3回 中津箒  吉田慎司さん(取材地:北海道)
第4回 茨城県・つくば箒  フクシマアズサさん

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