【箒をつくる人たち②】鹿沼箒・増形早苗さん「箒職人になる決意」

カゴアミドリ箒展 2020 
箒職人さんたちの「個」を知る連載企画
箒をつくる人たち ー 「私と箒」が歩んできた道のりをたどってー

第二回「箒職人になる決意」鹿沼箒・増形早苗さん
記事:ウィルソン麻菜
写真:小山加奈


どうして、この仕事に就いたんですか?

取材で誰かの人生を遡ると、そこで必ず出てくる質問だ。どうやって、どんな気持ちで、ここまで辿り着いたのか。そこには想像もしないストーリーがあって、私は「聞かれ飽きているだろうか」と思いつつ、つい、この質問をしてしまう。

今回の連載で訪ねた、箒職人さんたちも例外ではない。全員が同じ「箒職人」という肩書を持ちつつも、そこに至るまでの道のりは、十人十色…というか、四人四色。前回取材した米澤さんのように代々続いてきた家業を継いだ人もいれば、学生時代に箒に出会って職人になった人もいる。それぞれの道を辿って、今、「箒職人」と名乗っているのだ。

栃木県鹿沼市で、鹿沼箒をつくる増形早苗さんの道のりもまた、想像と違うものだった。増形さんの場合、ひいおじいさんが分家として箒屋を始めた初代。つまり、米澤さんと同じく家業を継いだ形になるが、米澤さんと大きく違うのは「いつか継ごう」とはまったく思ってもいなかったところだ。

「親戚の誰も、私が継ぐとは思ってなかったと思います。もちろん私自身も全然。小さい頃から本当に不器用でね、工作とかすごい苦手だったのに」

目の前に増形さんがつくった美しい箒を見せられて「不器用だった」とは、にわかに信じがたい。そう密かに思いながら、増形さんを箒職人の道へみちびいた人生の荒波と、決意への軌跡を伺った。


鹿沼箒と、きびがら細工

「見て美しく、使ってよし」

鹿沼の人々が箒に求めるのは、使い心地だけでなく、その見た目も重要だと増形さんが教えてくれた。日光東照宮のすぐ南に位置する栃木県鹿沼市は、秋祭りで登場する豪華絢爛な『彫刻屋台』が有名な町である。

「あの豪華な彫刻屋台を見ればわかると思うんですけど、鹿沼の人って派手好きなんです。だから箒も、穂が長くて、実がたっぷりついたもの。機能上はいらない装飾もたくさんあるんです」

現代で言う「見た目が素敵だと気分もアガる」みたいなものなのかもしれない。たしかに、見ているだけでうっとりするような細かな編み込みを見れば、掃除もやる気が出そうだ。

鹿沼箒の一番の特徴は、なんと言っても「ハマグリ」と呼ばれる、持ち手とのつなぎの部分だ。

「昔から『ハマグリが大きければ大きいほど良い箒だ!』って言われていて、本当にバカでかいものもあるんです。作っている側からすると、大きさはそんなに関係ないんだけど…」

貝のハマグリを模した編み込みは、見た目の美しさだけでなく機能上でもしっかりと役割がある。しっかりと編み込んであるからこそ、鹿沼の箒が柄から抜けることはない。まさに「見て美しく、使ってよし」なのだ。


増形さんには「箒職人」の他に、もうひとつの顔がある。それは、箒と同じ原材料でつくられる『きびがら細工』の職人。

タカキビともよばれる箒の原材料 ホウキモロコシの、捨ててしまう部分である「ガラ」から生まれる『きびがら細工』。大正時代には江戸の箒職人のあいだで遊びの一環として、花瓶やおもちゃなどが作られていたという。

現在、きびがら細工を作っているのは、日本全国でも増形さんだけ。増形さんのおじいさん、青木行雄さんが考案した干支動物たちを、毎年2,000個、ひとりで作り続けている。

「昭和30年代、掃除機の登場で箒の商売が傾いたときに、『何か他のことを考えておかないと』と、おじいちゃんが思いついたのが、きびがら細工でした。『鳴子のこけし』みたいな、みんなに愛される郷土玩具を作るためにいろいろ試したみたいです」

試行錯誤すること7年。昭和37年、鹿沼市に伝わる『白鹿伝説』を元に鹿が誕生した。翌年は偶然にも東京オリンピックの年。お土産にその年の干支だった辰をつくったことから、干支づくりが始まった。

「私の両親は化粧品店を営んでいたので、おじいちゃんのところによく預けられていました。工房が遊び場で、きびがらが遊び道具でした。おじいちゃんが試作品のきびがら細工で動物園つくってくれたこともありましたね。できそこないの象みたいなものとか」

そうやって振り返る増形さんのやさしい顔を見ていると、工房での時間はきっと楽しいものだったんだろうと想像できる。

つくる背中はずっと見てきたけれど、「継ぐ」という話は出なかった。増形さんは父方の老舗化粧品店を継ぐことになっていたのだ。ただ、家業を継ぐ前に増形さんは一度、東京で暮らしている。

「田舎者はね、一度は東京に出てみたいんですよ」と、増形さんは笑った。

特に行くあてもない、上京。まさか東京で自分の天職に出会えるとも知らず、20歳の増形さんはアルバイトに明け暮れた。


東京で見つけた天職、はじまりの口実

東京に来て3年が経った頃、ぺらりとめくった情報誌で、ある求人に出会った。それは障がいのある人たちの自立支援の仕事。外出や一人暮らし、時には旅行までサポートをするものだ。

「一般の人たちに混じって生きていくんだから、一般の人たちが介護すべきだっていう考えの会社だったんです。最初は時給目当てで応募したんですけど、入ってみたらおもしろくて。資格も取って、私はこれからずっと介護で生きていくんだって思ってました」

その後、結婚を機に鹿沼に戻るも、週に3日は東京に通って介護の仕事を続けた。そのくらい、好きな仕事になっていたのだ。何がそんなに楽しかったんですか、と聞くと増形さんは少し考えてこう言った。

「なんだろう。ずっと施設に入っていた人たちが社会に出るのをサポートするとき、やっぱりドライな関係じゃいられなくて、怒鳴り合いの喧嘩をするくらい密接な関係になるんです。もちろん厳しいこともあったけど、やっぱり一緒に成長していけるのが、すごく楽しくて」

気づけば介護を始めて5年が経ち、妊娠をきっかけに休職。妊娠中や産後は働くこともできない。せっかくだから、とおじいちゃんおばあちゃんの工房で手伝いをするようになった増形さん。しかし、介護の仕事自体を辞めるつもりはなかったという。

そんなある日、突然の変化は起きた。

「おばあちゃんが急死したんです。そしたら、おじいちゃん『俺、もう辞める』って起きてこなくなっちゃって」

ずっと夫婦ふたり、二人三脚でつくってきた箒ときびがら細工。毎朝5時から仕事場に座っているのが当たり前だった行雄さんが、起き上がらなくなった。

「このままだとおじいちゃんが寝たきりになっちゃう、と思いました。ひ孫を連れていくことで元気になってくれたらと思って、その理由付けで『手伝うよ』って言ったんです、継ごうとかじゃなくて」

おじいちゃんのそばにいて、起き上がってもらうための口実。1歳の息子さんを連れて工房に通いながら、きびがら細工を習う日々が、静かに始まった。


おじいちゃんで終わり、のはずだった

いざ工房に通い始めてみると、喜んだのは行雄さんよりも近所の人やお客さんだったという。跡継ぎができたと喜ぶ人々を前に、当たり前のようにおじいちゃんで終わりだと思っていた箒もきびがら細工も、ここで終わらせていいのかと考えるようになった。

「周りに期待されて初めて、こんな軽い気持ちでやっていいんだろうかって考えるようになったんですよね。当時は29歳。職人になるには遅すぎる、と思っている自分もいて。でも、ある人に『今が一番若いんだから』って言われて、心が決まりました」

以前から、行雄さんは「きびがら細工は自分が考えたものだから、跡継ぎ以外には教えたくない」と言っていた。だから、跡継ぎがいないのであれば、そこで終わり、のはずだった。

「次の誰かに伝えるための “中継ぎ” としてだけでもいいと思ったんですよね。とにかく誰かが覚えておかないと、完全にこの世からなくなっちゃっちゃう。介護を辞めよう、なんてことまでは考えてなくて、とにかく覚えて残さないとっていう気持ちでした。介護は代わりがいるけど、これは今、私しかできないなって」

『継がせてほしい』。改まって行雄さんに伝えると、その返事は、『あ、そうかあ』。

「『ありがとう』も、『良かった』も、何もなかったです。でも次の日、いつもどおり朝5時に、私の分の道具も揃えてちゃんと待っててくれた。まあ、嬉しかったんでしょうね」

職人としてのスタートは遅かった増形さんだが、ホウキモロコシが手に馴染むのは早かった。小さい時からきびがらで遊んでいたおかげで、加工しやすいものを見極める感覚には、困らなかったという。

きびがら細工だけを習うつもりだった増形さんのなかで「箒もやりたい」という気持ちが膨らんでいくことになる。やればやるほど「箒ありきのきびがら細工」だと感じたからだ。

「そもそも、きびがら細工には箒編みの技術がふんだんに使われているんですね。だから、どっちかだけっておかしいなと思って、箒も教えてもらうことになったんです」

ところが、その時点で鹿沼でホウキモロコシを栽培している人はすでにいない状態。まずは原材料を手に入れなければ、と考えていたところに、『あなたの箒のために、種を植えてある』と親戚から連絡が入った。

その親戚は、もともと行雄さんのホウキモロコシを育てていた人。行雄さんが『孫が箒を継ぐことになったから』と、ホウキモロコシの栽培を頼んでいたのだった。

「育ててもらえることになったんだけど、箒やりたいんだったら自分でも種取りなって言われたんです。だから、私も育てて種だけは毎年取っています」

増形さんの家の裏にある畑は、小さいけれどしっかりとホウキモロコシが根付いている。箒づくりの技術と一緒に、ホウキモロコシという植物の種も絶やさない。その強い意志を感じる場所だった。

5月に種を植えてもらったものが育てば、いよいよ箒が作れる。

胸を膨らませたその1ヶ月後、6月23日に今度は祖父、行雄さんが急死した。


どうしても、ハマグリやりたくて

「前日まで一緒に仕事して、そのまま朝起きてこなかったんです。鹿沼箒の修行は3年かかると言われていて、『だから俺は、教えきるまで3年は絶対生きる』って言ってたのに2年で死んじゃった」

ホウキモロコシは育ててもらっている。しかし、まだ箒をひとりで全部つくれない。そんな状態を見て、周りからは「もう、箒はやらなくていいんじゃない?」との声が多く上がった。その頃、離婚することが決まっていたことも理由のひとつかもしれない。3歳になる息子さんを連れ、箒職人を目指すのか?ずいぶん悩んだ、と増形さんは振り返った。

ただでさえ、鹿沼で箒職人といえば「男の仕事」。女性がつくっても男性の名前で販売するほどの男社会なのだ。

「やっぱり手が大きくないと、大きなハマグリはできませんからね。女にできるわけない、女がつくったところで売れやしないよ、みたいな感じでした」

ホウキモロコシを栽培する親戚からも「絶対無理だ。今なら畑は潰せるから」と、何度も連絡が入った。そのたびにグラつく心。

「でも、私、どうしてもハマグリやりたくて」

増形さんの声に力が入った。

「やってみないで諦めるのは嫌だったんですよね。『やれたかもしれないのに』って、後で後悔したくなかったんですよ。やってダメなら納得いくから、とにかく全力でやってみようと思って」

『絶対に活かすんで、そのまま育ててください』

そう、親戚に返事をした。

鹿沼で唯一ハマグリが編めた行雄さんがいなくなり、もちろん設計図も教科書もない。箒職人になるために残りの1年分の修行が必要だった増形さんには、幸い、行くあてがあった。

「隣の栃木市に、おじいちゃんの仲間で荒木さんっていう方がいらっしゃって、その人に死ぬ前から『もし俺に何かあったら頼む』って言っててくれたらしいんですね。『じゃあ俺のとこ来い』って言ってくれたので、栃木に通うことにしました」

だから、私には師匠がふたりいるんです、と増形さんは微笑んだ。


無農薬のホウキモロコシを求めて

荒木師匠の元での修行を終え、ひとりで鹿沼箒が編めるようになった矢先、今度はホウキモロコシを栽培していた農家さんが亡くなった。鹿沼でホウキモロコシの栽培ができる、最後の人だった。

原材料がなければ、技術があっても箒は編めない。話を聞きながら、私だったらとりあえずは海外産の安価な材料を仕入れるだろうと想像する。ところが、増形さんが向かったのは、それとは真逆の方向だった。

「鹿沼で栽培者を探そう、しかも無農薬でつくってくれる人を見つけようって決めました。箒の技術を残すのと同じくらい、『どんな農業を残すのか』も大事だって思ったから」

幼い子どもを抱え、箒職人として食べていかなければならない。そんな状況で、あえて無農薬栽培に挑戦する人が一体どのくらいいるだろう。普通であれば、少しでも安く安定的な原材料を求めてしまうのではないだろうか。

そう問いかけると、増形さんは「たしかに」と笑ったあとに、少し考えていた。

「母親だから、というのもあるかもしれません。子どもに何を残したいか、何を見せていきたいかっていつも考えてて。自分の身近だったものが当たり前に残せないってことを実感してきたから、大切なものは残して見せてあげられる親でいようと思うんですよね」

親になると強く意識する「次世代」。きびがら細工も、鹿沼箒も、ホウキモロコシも、いろいろな「終わってしまいそう」なものを見てきた増形さんだからこそ、より強く『次世代に残したいものは何か』を考えたのかもしれない。

どうしても、無農薬で。

誰も取り合ってくれなかった増形さんの想いと重なりそうな、農業をする若者に出会ったのは、2011年5月のこと。当時26歳、農家2年目だった廣田健二さんだ。廣田さんは、使い終わって捨てられてしまう部分、つまり廃棄物を肥料にする取り組みをしている。

廣田さんの農法を聞いて、そういう育て方でよければやりましょうと言ってもらえて。ただ、もちろん最初はまったく使い物にならなかったですね、指導者が誰もいないわけですから。廣田さんのやり方に合ったホウキモロコシの育て方を、本当に一から試行錯誤していました」

廣田さんが安定的にホウキモロコシを育てられるようになり、正真正銘 “鹿沼産” の鹿沼箒がつくれるようになったのは、およそ5年前だ。

「栽培を始めた頃、廣田さんと10年後にはお茶を飲みながら『どうする?今年の草は太くする?細くする?』みたいな話しようねって言ってて、来年ちょうど10年目なんです。去年あたりから『今年はちょっと細いのを足してほしいな』みたいなこと言えるようになって、なんか感慨深いですね」

その後、廣田さんの他にも、ホウキモロコシの栽培が始まった。障がいがある方や高齢の方が通っているデイホーム『コットン村』で、みんなで育てるユニバーサル農業がホウキモロコシの栽培を始め、今年で4年目になる。今年からは、栃木農業高校の有機栽培を研究するグループも参加し、ホウキモロコシを有機で育てるための研究などをする予定だ。

鹿沼のホウキモロコシで作られた、鹿沼箒もきびがら細工も、ちゃんと残っている。それは、増形さんが終わらせまいと前進してきた結果だ。

諦める時か、今は。

次々に訪れる「ここまでか…」と思うような状況を前に、道を見つけてきた増形さん。その諦めない心は一体どこで?と聞いてみると、思いがけない返事があった。

「私ね、すごい怠けもんで、アルバイトもすぐ辞めちゃうようなタイプだったんです。だから、昔を知ってる人は今の私を見るとビックリしますね」

大きな転換期は、やはり介護に出会ったことだという。今は介護とは違う道を歩んでいるものの、増形さんの人生や考え方にもたらした影響を考えると、介護はやはり “天職” だったのだろう。

「障がいがあっても自立しようとしている人って、『当たり前の権利を持ちたい』と思っている人が多かった。彼らと一緒にいるうちに、自分の意志のとおりに動けることが、どれだけ恵まれてるかって感じました」

「何かにぶつかったら『諦めるときか、今は』って自分に問いかけるんですよね。そのたびに『いや、まだいけるだろう』って思って進んでみただけ。絶対ここまでやるぞ、なんて思ってなくて、『もうちょっといける、じゃあもうちょっと』ってここまで来た感じなんです」

行雄さんが亡くなって、箒職人はやめておけと周りに言われたとき。ホウキモロコシを作れる人がいなくなり、道が絶たれそうになったとき。無農薬での栽培がうまくいかなかったり、台風で畑が全滅したこともある。「もう諦め時なのか」と問いかけると、答えはいつも「あともう一歩いけるだろう」だった。

そういえば昔、マラソンのコツを教えてもらったことがある。ゴールまでの道のりを考えるのではなく、目の前の目印を見て「あそこまで走ってみよう」を繰り返すのだ。あと一歩、あと一歩と歩みを進めていくうちに、気づけば長距離マラソンを走っている。増形さんの人生を聞いて、そんな昔の教えを思い出していた。

最後に、これからどんな箒を残していきたいかと聞くと、増形さんが古い箒を持ってきてくれた。古い、けれどそれ以上に美しい。手仕事とは思えない正確さで細かく均等に編まれた箒は、見た目重視の鹿沼出身でない私でも、ため息をついてしまうほどだ。

「初代が作った箒です。飲んだくれだったって聞いてるけど、箒の技術は本当にすごい。箒って見ただけでは誰が作ったのか分からないけど、ぱっと見て『うわあ、すごい!』って思わされてしまう。そういうものを、次の世代にも残してあげたいんですよ。説明しなくても、見て感動したら、自然と残したいって思ってもらえるんじゃないかなって」

増形さんは、工房で箒を編みながら、その奥にとおい未来を見ている。次の世代に何を残すか、どんなものを見せたいか。それは、私たちひとりひとりが思いを馳せたい未来でもある。

増形さんが箒職人になった理由。箒とともに「残したい」と思ったものは、言葉を尽くさなくても、きらびやかな装飾がついた鹿沼箒の向こうに見えてくるのかもしれない。

 

【連載インタビュー】箒をつくる人たち(全4回)
第1回 長野・松本箒  米澤資修さん
第2回 栃木・鹿沼箒  増形早苗さん
第3回 中津箒  吉田慎司さん(取材地:北海道)
第4回 茨城県・つくば箒  フクシマアズサさん