【箒をつくる人たち①】松本箒・米澤資修さん「箒職人の仕事」

カゴアミドリ箒展2020 
箒職人さんたちの「個」を知る連載企画
箒をつくる人たち  ー「私と箒」が歩んできた道のりをたどってー

第一回「箒職人の仕事」松本箒・米澤資修さん
記事:ウィルソン麻菜
写真:小山加奈

日本人にとって、身近なものだった「箒」。江戸時代に箒の原材料となるホウキモロコシの種や、箒の作り方が伝わり、日本各地で人々の生活を支える大きな産業として成長した。農家が作ったホウキモロコシで、職人が箒を編んでいく分業制が一般的だったという。

それが戦後にカーペットや掃除機が現れ、箒は活躍の幅を狭めた。と同時に、海外製の箒の参入。日本で箒作りを生業にする人々は急速に減っていった、という歴史がある。

私が小学生のときには、掃除の時間には必ず使われていた箒。おばあちゃんの家にも、室内用と室外用があった箒。日常のなかに、当たり前のようにあった箒。

なのに、私のなかでいつしか、“懐かしい過去のもの” になっていた箒。

実家を出るときには、まるで最初から決まっていたかのように掃除機を買い、まるでそれしか掃除の仕方を知らないかのように、フローリング用ワイパーで床を拭く。それが「当たり前」となっていったのは、きっと私だけじゃないと思う。

そんな“過去のもの”になった箒と、もう一度「出会った」のは2018年のこと。

数は少なくなれど、まだ日本に残る「箒をつくる人たち」がいると知ったのだ。しかも、彼らが作るのは、私が知っている箒とは比べ物にならないほどに美しく、原材料から丁寧に作られたものたち。

「箒のこと、箒をつくる人たちのことが、もっと知りたい」

その想いを胸に、日本各所に散らばる4人の箒職人さんたちを訪ねた。彼らが少しずつ種を撒きながら歩んできた、それぞれの「私と箒」の道のりを辿るために。


松本のある箒屋のはなし

「ガッツリしてますね」

長野県松本市を中心に作られてきた「松本箒(まつもとぼうき)」の特徴を、箒職人の米澤資修さんに聞いたときに返ってきた言葉だ。米澤さんは、松本箒をつくる箒屋さんの3代目。自分たちで建てたという工房で、箒をグイグイ編みながら話を聞かせてくれた。

たしかに、松本箒は「ガッツリ」している。持ち手の部分には、タモやサクラ、クルミなどの太い無垢材が使われ、ふさふさの穂がみっちりと麻糸で結ばれている。長年サッカーをしてきた体格の良い米澤さんから生まれた箒、という感じだ。


「もともと、大工や職人用の箒だったんじゃないかなと思うんです。木くずとか一気にガーッと掃けるような感じ」

松本で有名な場所といえば、松本城だ。お城を中心に栄えたこの町には、商人や大工、職人なんかがたくさんいたそうだ。建築現場ではいまだに重宝されている箒が、この地で大きな産業となっていったのもうなずける。

米澤さん一家が箒屋を始めたのは、およそ70年前。米澤さんの祖父である一代目、八郎さんがホウキモロコシを仕入れて箒を編んだり、箒自体を仕入れて県外に売りにいく、いわゆる「箒屋」を始めた。

「その頃は、ホウキモロコシという素材が“あって当たり前”の時代で。農家さんも野菜のついでに『作ってやるで』みたいな感じで、ホウキモロコシを育ててくれていたんですよ。だから、うちのじいちゃんはすごい安い値段で原材料を仕入れてたと思いますね」

育つと2メートル近くなるホウキモロコシは、農家にとっては動物避けの檻の役割になっていたのかもしれない、と米澤さんは言う。ついでに箒職人に買い取ってもらえるのであれば、農家としても一石二鳥だったのだろう。

「だから、一代目はボロ儲けなんですよ。箒があればあるほど売れる時代だったから、どんどん仕入れて、どんどん売って、自分で編む時間すらなかったですもん。じいちゃんと親父で、富山とか新潟とか北陸のほうに売りに行ってましたね」

まさに、箒の全盛期。ただ、その勢いは掃除機の出現で一気に落ちた。

「どうしても『掃除機のほうが便利だよ。まだ箒使ってるの』みたいなね、掃除機がステータスな感じになってきちゃったから。親父の代になって、突然食っていけなくなっちゃった」
箒一筋でやってきた米澤家の二代目、勝義さんは生きるために会社員になる選択をせざるを得なかったという。

『絶対、継ぐな。箒屋なんてやるだけ損だから、就職したほうがいい』
そう言われて育った米澤さんは、東京の専門学校を卒業後、長野県にある製造業の会社に就職した。


それでも、箒職人が残った理由

昔はいつか箒屋を継ぐんだ、と思っていましたか。その質問に米澤さんは「バリバリ思ってましたよ」と笑う。

「小学生のときの作文に『俺は箒屋になる』って書いてました。自営業の家の子って、たぶん大体の人が、自分は家を継ぐんだってどこかで感じていると思うんですよね。家族みんなずっと箒作ってるし、自分もいずれはやるんだろうなっていうのはイメージしていました」

それでも、大人になる過程で目の当たりにした時代の流れ、箒の衰退。米澤さんはお父さんに言われたとおり、製造業に就職、その後酒造メーカーに転職した。他の”食っていけなくなった”箒職人の子どもたちがそうしたように。こうして、松本から松本箒を生業として引き継ぐ人は、誰もいなくなった――と思われた。

ところが、実際には松本箒の灯火は小さく燃えたままだった。勝義さんは、会社勤めになっても箒をつくることをやめなかったのだ。

「趣味ですよね。好きなんですよ、箒を売りに行くっていうことが。あとはね、いろいろなところに勤めたけれど、人に使われるのが嫌で帰ってきちゃったんだよ。完全に自分で商売するほうが向いてるタイプ」

米澤さんは笑った。そして、そんなところは自分も似たかもしれない、とも。

「うちの親父って本当に商売っ気がなくて、よくそんなんで商売やってんなって、いつも言うんです。まあ、でもそこに松本箒が生き残った理由があったのかもしれないですね。父ちゃんが会社員になりきれなくて、箒売るのが好きで、細々とでもやっていたから俺が継ぐことができた。『食っていけるか』だけの損得勘定だけで動いてたら、俺は今、こうやって箒作れてないです。そういう部分では、感謝ですかね」


ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。米澤さんは、どうして会社を辞めてまで右肩下がりだった家業を継いだのか。箒の価値を見直す声もあるとは言え、時代はまだまだ掃除機が強い。『食っていけるわけない』と言われて育った箒職人の道に、何か光が見えたのだろうか。

「昔の箒屋がやっていけなくなった大きな理由のひとつに『原価計算ができていなかった』のがあると思ってて。どんぶり勘定にもほどがある!って驚くくらい安売りしてたんですよね。もちろん、そのぶん品質もアバウトなものが多かったです。今みたいに一本を大事にして長持ちするものを作ろうというよりは、『何本売ったぞ』っていうのが大事な時代で。人件費もガソリン代も関係ないから、利益がちゃんと出ていたのかすら怪しい」

今のビジネス感覚では考えられないけれど、箒の原材料も職人も買い手も溢れていた時代が垣間見えるようなエピソードだ。なるほど、これは掃除機が現れた瞬間に息詰まってしまったわけだ。ただ、裏を返せば、原価計算を見直すことで何か道が拓ける気がしていたと米澤さんは言う。

そして、もうひとつ米澤さんが驚いたのが、箒屋としてクラフトイベントに呼ばれたときのこと。2日間のイベント用に両親が準備した箒の数は、たった十数本。当時、会社員だった米澤さんが「プライスカードは?」と聞いても、「プライスカードって何?」という状態だった。

「え、そんな状態でイベントで勝負かけるつもり?って、もうびっくりしちゃって」

ちょうど週末だったため、米澤さんが出店を手伝うことに。プライスカードを作り、数少ない箒を並べてみると、持ってきた箒が瞬く間に売れてしまった。

「本当に速かった、というか一瞬でした。さらに、イベントに来ていた女性たちが『かわいいね、箒』って言ったのを聞いて、これは原価計算をしっかりして、見た目も少し変えてみたら、もうちょっとなんとかなるんじゃない?って感じましたね」

松本箒を、生業として残せるかもしれない。
そんな光が、米澤さんのなかにしっかりと差した瞬間だった。


「草マニア」がつかさどる畑へ

米澤家の目の前には、およそ900坪の真っ青な畑が広がっている。大家さんのぶどう畑だったところを「使ってくれないか」と譲り受け、野菜を作り始めたのが最初だという。

そこで勝義さんが「ホウキモロコシもやってみるか」と栽培を開始。他にホウキモロコシをつくる農家がいなくなったこともあり、徐々にホウキモロコシを栽培する量が増えていった。今では広い畑のほとんどがホウキモロコシの栽培に当てられている。

5月に種を蒔いてから7月と10月の収穫まで、間引きや雑草を取るのに何日もかかる。さらに収穫して終わりではなく、そこから天日干し、竿に引っ掛ける「はぜかけ」状態にして暗室で半年ほど干しておく。育てたホウキモロコシを使って、実際に箒をつくれるのは種を蒔いてから1年後、という長丁場な家業なのだ。

それらの工程を、米澤家はお父さんの勝義さん、お母さんの純子さん、米澤さんのたった3人でこなす。作業の多さや畑の広さを見て「いや、期間限定でもお手伝いさんがいるのでは」と思ったが、さらりと「俺たちだけですよ」と言われて仰天した。

米澤さんから、「うちには“草マニア”がいる」とは、事前に聞いていた。

畑の土に少しでも雑草が顔を出せば、「畑、集合」の号令がかかる。青々と広がる畑をつかさどる「草マニア」とは、米澤さんのお母さん、純子さんのことだ。畑の管理の他に、どの穂が、どのサイズの箒になるかの選別も担当する。

米澤さんに箒の作り方を教え込んだのも、実は純子さんだ。多くの職人技がそうであるように、『松本箒の作り方』なんて教科書があるわけではない。「見ながら技を盗め」というタイプのお父さんを見かねて「そんなん難しいでしょ」と教えたという。


実は、勝義さんが箒屋だと結婚するまで知らなかった純子さん。「こんな毎日畑に出て暮らすことになるとは思ってなかったよ」とけらけら笑っていた。初めて訪れたはずの米澤家がこんなにも居心地が良いのは、勝義さんと純子さん、そして米澤さん(と、ねこ社員2匹)のおおらかさにあると感じていた。

取材の日は、雨が降ったり止んだり。雨が上がると、純子さんは常に畑にいた。米澤さんが「畑の箒」と呼ぶ道具を使って、列に並ぶホウキモロコシの間を丁寧に掘っていく。そうやって土を掘り返すと、雑草が生えてこなくなるのだそうだ。

「雑草が増えるとホウキモロコシのほうに栄養がいかなくなるのと、アブラムシがいっぱいついちゃう。アブラムシがつくと、穂が赤くなっちゃうからね」


ホウキモロコシ栽培の天敵は、雑草とアブラムシだけではない。一番の心配事は何ですか、と聞くと、米澤さんは空を見上げた。天気だ。


良い箒は、良い材料から

他の農作物と同じように、ホウキモロコシも天候によって生育が変わってくる。最近は、おかしくなりそうな暑さが襲ったと思えば、豪雨が止まらないこともあり、天候の傾向がなかなかつかめないのだ。

米澤さんに聞くと、ホウキモロコシは、穂の部分がググっと空に向かって伸びてくるときに雨が続くと、重みで垂れ下がったままの癖がついてしまうそうだ。そんな穂では、真っ直ぐな美しい箒はつくれない。

それじゃあ雨が続いてしまったらどうするんですか、と聞くと、米澤さんは手を合わせて天を仰いだ。

「祈る、祈るしかない。本当にそれしかないです」

天気予報で常に情報をインプットして、毎年のデータも蓄積して、空模様をずっと気にしている。もちろん、栽培の工夫や実験もするけれど、人間の力の及ぶ範囲には限界があることを感じるのが「畑」なのだ。

「この仕事してて何が一番こわいかって、地球が一番こわいよね。だって、こっちの都合に合わせてくれないんで。地球にどれだけ合わせられるか、しかない。人間ってやっぱり“住まわせていただいてる”んだなっていうのを、この仕事やってるとつくづく感じますね」

米澤さんが手間暇をかけて、ホウキモロコシから自分たちでつくる理由。それは、やはりただ一心に「良い品質の箒をつくりたいから」だ。

「100点の箒を目指すためには、まず100点の素材じゃないと話にならない。それは絶対条件ですよね」

数年前から、米澤さんは裸足で畑に入るようになった。畑の命でもある土の状態を感覚的に掴むためだ。もちろん土づくりについて研究もしているが、最後は感覚が物を言う。「そこまでするか」と周りが驚くほどに雑草を取り、裸足で作業するのも、すべて100点の素材をつくるため。

「ホウキモロコシが今年どんなふうに育つかによって、箒も変わってくる。その年の素材に合った箒をつくるんです。こいつらは、こっちに合わせてくれないんで」


ボジョレーヌーヴォーみたいだ、と思った。今年はどんなホウキモロコシが、その先にどんな箒ができるんだろう。米澤さん自身も、それがこわいのと同時に毎年わくわくしていると嬉しそうだった。

そして、まさに今、米澤さんが作っているのは『松本箒2020』だ。

「毎年、ちょっとずつ作り方も変えてるんです。見た目じゃ全然わかんないくらいなんですけど、掃き心地を変えてて、去年よりも良いものを出したいと思ってます」

箒職人になって、もうすぐ10年。まだ100点満点の箒はできていない。

「99点近いものは、年に1本くらいはできるんですよ。100点に少しでも近づいた箒ができたときは、やべえと思いますね」

理想の箒の話をするとき、米澤さんの顔は明るく、わくわく感に満ちている。箒をつくることはもちろん、自分自身の高みを目指すこと自体を楽しんでいるようだった。


箒も職人もアップデートして前へ

「俺ね、箒を“売る”っていうより、”嫁に出す”って気持ちで出してます。だって、本当に小さいときから知ってて、泣く泣く間引きもしながら、手塩にかけて育てた子たちですよ。やっぱり、その価値をわかってくれる人のところに行ってほしいし、俺たちもそれを伝える努力をし続けなきゃいけないと思う」

“伝える努力”と言ったとき、米澤さんの目の真剣味が増した。

一本の箒に、どれだけの時間と労力がかかっているか。特に一年の半分を費やす畑の部分は、お客さんには見えにくい。穂の厚みや真っ直ぐな形状は、雨の日も風の日も、家族みんなで守ってきたものだということを、箒とともに伝えていかなければならない。それは、決して偉そうだったりハードルを上げるわけではなくて、価値の意味を理解してくれる人のところに「嫁に出したい」のだ。

毎年の箒のアップデートにくわえ、米澤さんは「箒自体」の提案も時代に合わせて変えている。例えば、もともとあった片手で掃ける短めの『手箒』と、柄の長い『長箒』の中間にあたる長さの『中箒』は、米澤さんのアイディアだ。

「今の時代、掃除は『簡単に済ませたいもの』なんです。そういうときは、手箒より背筋が伸びて掃きやすく、長箒より軽いものがいいよなって考えていて。中箒をつくったら、やっぱり売れ筋商品になりました。こうやって現代に合う、使いやすい形を考えて提案していければ、掃除の仕方がまた変わって、箒をまた使ってもらえるチャンスにもなると思ってます」

時代が変わったのであれば、自分から合わせてみたらいい。今の人々にとっての100点の箒を作ってみる。その試行錯誤を楽しむ米澤さんの話は、畑で「ホウキモロコシに合わせて最高のものをつくる」と話していた姿に重なる。

もともと箒職人の仕事は、箒をつくるところだけだったかもしれない。しかし、今の米澤さんの仕事は、原材料を育て収穫し、社会を見ながら箒をつくり、しっかりと伝え届けるという大幅なアップデートを遂げた。

「うちの親だけが悪いわけじゃないけど、お前たちの時代が何も考えずにやってきたから、箒は今こんなふうになってるんじゃないかって、よく喧嘩するんですよ。もっと考えるべきことがたくさんあったんじゃないかって。

逆に言うと、子どもたちの時代に悪くなってたら俺たちの責任だって感じてます。だから、これからの商売や経済、環境なんかも含めた多くのことは、俺たち大人の責任ですよね」

箒業界の衰退、異常気象への不安など、箒職人にとって心配事は多くあるはずだ。それでも、米澤さんと話していると、きっと何か明るいものを残していってくれるんじゃないかと思えてくる。

「『箒職人、なんか楽しそうじゃん』って思ってもらえる人でいたいんですよね。俺がこんな感じだから、うちの子どもたちも『箒職人って大変そう』とは思ってないだろうな。もちろん稼げる仕事にするのと同時に、楽しそうに働く姿を見せたいですね」

ジャージ姿で箒を編んで、裸足で畑に入っていく。ラーメンが大好きで、「ここは、うまいんです!」と話すときの笑顔は、つい「私も食べてみたい」と思わされるほどまぶしい。うん、たしかに、こんな職人がいたら「箒づくりって、なんだか楽しそうだぞ」と、人々は明るい未来を想像し始めるだろう。

 

【連載インタビュー】箒をつくる人たち(全4回)
第1回 長野・松本箒  米澤資修さん
第2回 栃木・鹿沼箒  増形早苗さん
第3回 中津箒  吉田慎司さん(取材地:北海道)
第4回 茨城県・つくば箒  フクシマアズサさん