【箒をつくる人たち④】つくば箒・フクシマアズサさん「箒とともに生きる」

カゴアミドリ箒展 2020 
箒職人さんたちの「個」を知る連載企画
箒をつくる人たち   -「私と箒」が歩んできた道のりをたどって –

第四回「箒とともに生きる」
茨城つくば箒・フクシマアズサさん
記事:ウイルソン麻菜
写真:小山加奈


この春、新型コロナウイルスが世界中をおそった。

本当はずっとそこにあった「何が起こるか予想できない」世の中の不安定さを、多くの人に実感させたと思う。私自身も、ライターとして取材に行かれなくなったり、娘を保育園に預けられなくなったりと、多少なりとも影響を受けた。

「これから世界は、私たちはどうなってしまうんだろう」

先の見えない不安が、きっと、どんな人の胸の中にもある。

そんな中で箒職人の方々にお話を伺ってみると、どの地域の箒にも、予想もしていなかった掃除機の登場やグローバリゼーションの波に飲み込まれた過去があった。

箒づくりで食べていけるのか、「箒」という文化を残すことができるのか。

その不安は、体験していない私には計り知れない。けれど、取材させてもらった職人さんたちは過去を明るく振り返る。そして、そんな過去を乗り越え、今、彼らはここにちゃんといる。

彼らから私が感じたのは、自立して生きる“しなやかさ”だった。もともと持ち合わせた個性ゆえに、ものづくりの道に進んだのだろうか。それとも、「ものをつくり生きること」が、彼らを強く、しなやかにしているのだろうか。

美しい箒に惚れ込んで、日本各地にいる「箒をつくる人」たちを追いかけた連載も、今回で最終回だ。松本箒の米澤資修さん、鹿沼箒の増形早苗さん、北海道で中津箒をつくる吉田慎司さんを巡り、最後に訪れたのは茨城県つくば市のフクシマアズサさん。

大学進学を機につくばへ移住し、箒に惚れ込み職人となった彼女に見える“しなやかさ”がどどこから来るのかを探った。


「誰かのための手仕事」にあこがれて

「これ、もしよかったらどうぞ」

平屋の工房を訪れた私たちに、フクシマさんが手際よくキッチンから出してくれたのは、じっとりとした暑さを吹き飛ばす濃厚な梅ジュース。……と、クッキー?

「ホウキクッキーです。ホウキモロコシの実と小麦粉、米油、砂糖、食べやすいように少しのレモンピールも入ってます」

かじると、カリッと固めの食感。ホウキモロコシの味なのだろうか、ちょっとした苦味の混じった香ばしさに、レモンピールが爽やかに香る。人生のなかで、まさか箒の原材料を食べる日が来るとは思っていなかった。

フクシマさんは、とにかく身の回りのものを何でもつくる。

今回ごちそうになった梅ジュース。麦を焙煎するところからつくった麦茶。ズボンや麦わら帽子も手づくりだし、昨年は工房内で蚕を育てたりもしていたのだ。

「昔の人って本当に何でも自分たちでつくって、壊れたら直して使うの繰り返し。それが積み重なって、人の暮らしになっていってたんですよね。それを思うと『人間ってすごいじゃないか!』って、自分も人間力を高めたいと思うんです」

フクシマさんは大阪出身。つくば市へは、筑波大学の芸術専門学群への入学をきっかけに引っ越してきた。高校時代から美術を学んではいたものの、大学で出会ったこれまでと違う美術の概念に視野が広がったという。

フクシマさんが手仕事にあこがれを抱いたきっかけのひとつに、福島県奥会津で「暮らしの道具」をつくる人々との出会いがある。

奥会津は、山ブドウやヒロロ、マタタビなどの植物を使った編み組細工づくりが盛んな場所。夏の山仕事や農作業で使う道具を編みながら冬を越す、そんな生活を続けていた人々の手仕事が注目されるようになり、「ふるさと会津工人まつり」が開催されるようになったのは昭和61年(1986年)のことだ。

大学3年生のときに、初めて工人まつりを訪れたフクシマさんに衝撃が走った。

「『こんなものづくりの世界があるのか』ってびっくりしたんですよね。工業品じゃなくて手仕事で、誰かが使うためにものをつくる分野があるんだって、ドキリとしまして」

フクシマさんがそれまで勉強していたアートとはまったく違う、「生活工芸」の世界が広がっているのを初めて知った瞬間。「アートの世界にある工芸」と「生活のなかにある工芸」、わかるようでわからない、その違いを聞いてみた。

フクシマさんは「なんだろうな、彫刻と人形、ですかね」と答えてくれた。

「例えば、彫刻などのアートは、ひとつの作品をみんなが見る。それに対して手づくりの人形は、ひとつの作品がたったひとりのためにある。つまり、個人が“自分のために所有する美術品”なんですよね。美術品、は言い過ぎかもしれないですけど」

フクシマさんが目指したいのは、人々が羨望の眼差しで見に来るような彫刻ではなくて、ぎゅっと抱きしめてずっと一緒にいたくなる人形なのかもしれない。それをフクシマさんは「私秘的」と表現した。

「自分だけの秘密の道具、というか。アートは鑑賞を通して心に作用することができるけど、道具は所有して、使うことで心に作用する。道具と使い手との間に、うれしさとか美しいと思う瞬間が宿っているなと思うんですよね」

自分のもとにある、大切な道具。家の中でふと目に入るだけで少しうれしくなって、使うたびに「好きだ」と思う。そんな道具をつくり出す手仕事にフクシマさんは惹かれたのだ。

「でも、大学ではあんまり作品として認められない分野なんですね。だから、なかなか大学ではできないんですけど、密かにそういうものづくりができたらいいなと思っていました」


箒に惚れ込んだ理由

暮らしの道具をつくる手仕事への憧れを抱えながら、大学時代を過ごしたフクシマさん。大学院のゼミでの活動が、フクシマさんの人生を大きく箒へ近づけることになる。

ゼミを率いる宮原克人先生が研究していたのは、「農閑工芸」というもの。「農閑工芸」は、農家の人々が作物の育たない農閑期につくりだす民芸品のことを指し、草鞋やかご編みなどが知られている。

箒づくりは、箒をつくるために原材料を育てる産業構造上、「農閑工芸」とは少し異なる。しかし、“自然素材を柔軟に扱い、大きな設備や技術を必要とせずに作ることができる生活道具”という意味では通ずるものがあった。

「しかも、先生自身が昔から箒のグラビア写真を撮り続けてきたような“箒マニア”だったんですよね。当時、つくばにも箒職人がいると知り、ゼミ生も含めてみんなで習いにいくことになったんです」

半ば、先生の趣味にも巻き込まれる形で、つくばの箒職人に会いに行ったフクシマさん。これが、のちに師匠となる酒井豊四郎さんとの出会いだった。

「師匠の箒を使わせてもらったとき、箒の概念が変わったんです。『こんなに、掃除って楽しいの?』って笑っちゃうくらい。箒で床を掃いているだけなのにテンションが上がって、まるで箒が自分の身体の一部になったような感覚がありました」

箒が自分の腕の一部になったような感覚で、ふわっと床を撫でるとおもしろいくらいにホコリが集まってくる。まるで魔法のような感覚に、フクシマさんは虜になった。

「しかも、ただ掃きやすいだけじゃなく、製造工程自体が美しいなぁと惚れ込んでしまって。自分が畑で作った原材料で、物をつくる。何かに依存することもないし、ゴミが出ないし、無駄がない。まさにゼロから、手作りで生活の道具をつくるってことなんですよね」

ゼロから何かを生み出せることって、実はこの世にあんまりないと思う、とフクシマさんはその素晴らしさを語る。

「多くのものづくりは、すでにある材料を取ってきて形を変えて何かを生み出すものなんですよね。それも素晴らしいけれど、何もないところから価値の総量を増やすには農業しかない。蚕とかも、桑さえ与えれば繊維ができるってすごい!って思うんですよね」

何もない地面と小さな種。それが大きく育って、人の手で編み込まれ、私たちの生活を彩る道具になる。ものが当たり前にある世の中では意識もしないようなことだけれど、4人の職人さんを訪ねた私には、目の前の箒が生まれることが奇跡に思えた。

大学院で箒を学びながら、他にも日本各地のものづくりに向き合ったフクシマさんが得たのは「つくる人たちがいなくなってしまったら、手仕事は終わってしまうんだ」という痛いほどの実感だったという。

「見学させてもらった手仕事の職人さんは高齢化が進んでいて、76歳で“若手”と言われている世界なんですよ。20年後には多くの工芸品がなくなってしまっているかもしれないと考えたとき、私は師匠の箒を残したい、と思ったんです。いつか、あの箒がない時代を生きるのが嫌だったんです」


 
町を救ったつくば箒の歴史

つくば市は、全部で6つの町村が合併してできた町だ。合併する前にあった大穂町という場所が、「大穂の箒」として箒産業が有名になった場所である。

「文献によると、大穂町にある前野地区は川からも遠く、土地の痩せて農業がうまくいかない貧しい地域だったそうです。そこに箒がやってきた――」

そう言いながら、フクシマさんが見せてくれたのは『茨城県の農家副業 第四篇』という分厚い資料。タイトルどおり、農家に向けて副業としてホウキモロコシを育てることを奨励する内容の本だ。

「『強いホウキモロコシは、どんな土地でも簡単に育てられるから育ててみよう』って書いてあるんです。今、実際に育てている私からすると、簡単に育つなんてとんでもない!と思うんですけどね」

当時の農家さんはすごいですね、と笑うフクシマさん。たしかに生命力の強いホウキモロコシは比較的どこでも育ったのかもしれないが、きっと今、フクシマさんが試行錯誤しながら育てているものと品質は比べ物にならなかったんじゃないだろうか。

茨城県の貧しい町にやってきた箒の技術は、実は以前取材した鹿沼箒で有名な、栃木県鹿沼市から受け継がれたものだ。明治22年(1889年)、農作物の種子売りの行商をしていた中島武平という男が鹿沼市での修行の末、故郷である大穂町に種と技術を持ち帰ったのが最初。

土地柄、質の良い農作物ができなかった大穂の人々は、多くの仕事を生み出す箒づくりに大喜びだったに違いない。地域をあげてホウキモロコシを育て、箒を編み、売り歩き、箒を大穂の一大産業として育てていった。箒が大穂の町を救ったのだ。

食料以外の栽培が制限された戦時中も、なんとか守り抜いたホウキモロコシ。しかし、戦後の高度経済成長ではやはり生き延びるのが難しくなる。これまで取材した、どの地域の箒にも共通する社会の変化、掃除機の登場である。

「高度経済成長のゴルフブームで、ホウキモロコシを辞め、芝生の栽培に移る農家さんも多かったそうです。だんだんとホウキモロコシを育てる人も、箒を編む人も減っていって、私の師匠も一時期は勤め仕事をしながら箒をつくっていました」

どの地域にも、次世代にバトンを渡すのを待つかのように最後のひとりになるまで箒を編み続ける人がいる。つくばの場合はそれが師匠の酒井さんで、フクシマさんは週末に箒づくりを教わりに酒井さんのもとに通い詰め、ホウキモロコシの育て方から箒の編み方までを学んだ。

常に“発達”させたい

現在、つくばでホウキモロコシを栽培しているのは、師匠の酒井さんとフクシマさんだけだ。鹿沼から伝わってきた歴史が見えるように、つくば箒の大きな特徴にハマグリ型がある。

「以前購入いただいたお客さんから、ハマグリのギリギリのところまですり減った箒の写真が送られてきたんです。それくらい穂が抜けてくる心配がない、丈夫なんですよね。この造り自体は、これからもずっと変えずに大切にしたいです」

機械ならまだしも、人の手でその頑丈さがつくり出せるのは、構造のすばらしさや手仕事の力強さを感じる。フクシマさんが目指した「手仕事で暮らしの道具をつくる」ってこういうことなんだろう。いくら美しくても、ちょっと触ったくらいで壊れてしまっては道具として成り立たない。そこに使う喜びとともに、しっかりと使える安心感が求められるのだ。

ただ、鹿沼で見た鹿沼箒と、フクシマさんがつくる箒は同じハマグリでも少し雰囲気が違うような気がする。

「鹿沼のハマグリは、貝を模すためにあえてポコっとでっぱりを作ってるんですね。師匠もそうつくっていたんですけど、ある時お客さんから『でっぱった飾りのないものもつくれるのか』と聞かれて、つくってみたのがこの形です」

でっぱりがあることでより「ハマグリ貝」の形に近く、豪華な鹿沼箒。それに比べて、フクシマさんの箒はもう少しシンプルで、持ち手から穂先まで、スッと流れるようなシルエットなのだ。今年、フクシマさんはそのシルエットをさらに美しくできないか、と模索している。

「もともとあったでっぱりをなくてしているので、中の構造がまだ最適化されてないんじゃないかなと思って、より良い造りにしていこうとしています。もともと美術出身だからか、造形の美しさを大事に、シルエットにはこだわりたいんですよね」

どんな形が理想なんですか?と聞くと、フクシマさんは少し長い間考えていた。

「理想の形というゴールに向かって作っているというよりも、“発達”って言葉がぴったりなんです。常に洗練させていかなきゃって思っている気がします。見た目の美しさも、使い心地の良さも、どんどん発達させていきたいっていう気持ちです」

箒づくりの発達と同時に、ホウキモロコシも毎年少しずつ試行錯誤をしながら改良を加えているという。今年のテーマは「台風が来ても倒れない、強い株をつくる」で、例年入れている堆肥や石灰のほかに、土壌診断の結果に合わせて単肥を追加したと教えてくれた。

「箒を良くするにも、いろいろな切り口があって。原材料を良くしたら、もっと良い箒になると思うから、畑は毎年いろいろ挑戦したいですね。箒づくりの技術を積むことで良くなる部分もあるから、修行、練習も続けます。目新しいことがしたいわけじゃなくて、うん、やっぱり“発達していく”っていうのがしっくりきます」

現在、畑を始めて6年目。実は安定して作ることが出来るようになった4年目くらいのときから、逆に重苦しい気持ちになることが増えた、とフクシマさんは言う。

「ずっと同じことをやっていく、ってことができないタイプなんだと思います。どうなったらもっと良くなるかって考えるのが楽しいし、目的がないとつまらない。そういう意味で、つくばという地域は合っていたのかもしれません。師匠もお客さんに言われてでっぱりを取っちゃったくらい、茨城は変えることに抵抗がない気がします。だから私もここで、いろいろ模索したり挑戦したりできるんですね」

 つくばという場所でフクシマさんが出会い、つくりあげてきた「つくば箒」。地域の箒でもありながら、それはすでに「フクシマアズサの箒」だ。今は、それを突き詰めていく日々を送っている。


世界中が混乱し、静まるなかで

フクシマさんの工房を訪れたのは、ちょうど緊急事態宣言が明け、少しずつ世の中が動き出そうとしていた頃だ。話は自然と、自粛期間の過ごし方に移っていった。

多くの人々の生活が止まってしまったように、フクシマさんにとっても急ブレーキとなったこの期間。予定していたイベントがなくなり、突然ぽっかり時間が空いたそうだ。イベントがなくなることは、作り手にとっては販売機会が失われるということで、直接的な収入減にもつながる。不安はなかったのかを聞くと、フクシマさんの返答はなんとも力強いものだった。

「もちろん収入が減ったのはつらかったんですが、気持ちの面では思ったより大きな不安はなかったです。箒職人になろうと思ったときから『ダメだったら雑草食って生きていこう』くらいには思っていたので」

聞けば、フクシマさんがホウキモロコシの栽培を始めた年は冷夏だったために、アブラムシが大発生。ほとんどのホウキモロコシがダメになり、たった5本しか箒が作れなかったそうだ。そういう経験を経ての今、箒がつくれるだけありがたいとフクシマさんの気持ちは落ち着いていた。

雑草を食べて生きていこう、は極端な話だけれど。何もないところから、さまざまなものを作り出してしまうフクシマさんは、たしかに「生きる力」がとても強いように感じる。いざとなれば、畑で野菜を育てればいいし、身の回りのものは大抵つくれるのだから。ホウキモロコシのクッキーを食べながら、私は仕事がなくなったら雑草を食えるだろうか、などと思う。

「私の周りのものづくりしている人たちは、イベントがなくなって不安な中でも、この空いた時間をいいものにしようって前向きな気持ちで過ごされていた方が多い気がします。仕事がなくなっても、何かしら別のやることを作り出せる人たちなんですよね」

目の前の仕事がなくなって身動きが取れなくなっても、別のものづくりを生み出す。それってなんだか、フクシマさんが憧れた農閑工芸のものづくりに似ている。本業である夏の山仕事や農作業ができない寒い冬、家の中に籠もりながらも何かしら手を動かす彼らは、そこからまた新しい価値を生み出しているのだ。

「農閑工芸に取り組む彼らは、やることがあるから冬のあいだを生きられるっていう面もあります。何ヶ月も家に籠もりっぱなしって、普通は精神的におかしくなっちゃうと思うんですよ。だから、生活のためであるのと同時に、彼らが生きるためでもあるのかなと思います」

そう考えると、ものづくりをして生きる人々は「ものづくりに生かされている」とも言える。この期間中も、不安を抱えながらも、まずは目の前のものづくりに取り組む人々がたくさんいたのかもしれない。

ものづくりと、箒と、ともに生きる

フクシマさん自身も空いた時間で新しい箒の形を模索したり、新たな取り組みを考える時間を持てた、と晴れやかな顔をする。

「空いた時間に内省する時間をいただいて。これまで箒を安定的につくれるようになるまで必死で走って、始まったら良くしていくのに必死で、振り返ったり修正したりする時間が取れていなかったと気付いたんですね」

フリーライターとして走りっぱなしの私もギクリとする言葉だ。たしかに強制的に時間ができたことで、多くの人が自分の生活や仕事、未来について考える場面があったのではないだろうか。

「この数年、走り続けているうちに職人としてのイメージや働き方に、いつの間にか息苦しくなっている部分もあったんです。でも、この期間を経て、自分が良ければいいんだって軸を自分に戻せました」

がむしゃらに良い箒をつくることを考えていた頃に比べて、「箒職人」として周りから求められる仕事や、自身の生活とのバランスに悩むことが多くなっていた。それにようやく気づけたとフクシマさんは言う。モヤモヤを緩和していったのが、“仕事と暮らしの境目をなくしていくこと”だった。

天気が良ければ出かけるついでに畑に顔を出したり、箒を編む合間に料理をしたりする。フクシマさんにとって、箒をつくることは仕事であるのと同時に生きること。だからこそ、暮らしと仕事を融合させていくことで、自分らしい生活に近づいているという。

「心に引っかかっていたトゲを外せたような感覚があって、少しずつマインドの変化もありました。新しい販売方法を模索しようかなって思えたり、noteで発信を始めたり」

「フクシマアズサ(B面)」と名付けられたnoteを見せてもらうと、B面の名のとおり箒職人として以外のフクシマさんの顔が見える記事が並んでいる。「簡単なちりとりの作り方」から「本格的な麦わら帽子の編み方」まで、それらはフクシマさんが提唱したい“人間力の育て方”だ。

「『身近な素材で、簡単な道具で、自分の生活道具をつくる』という宮原先生の農閑工芸の考え方は、私の活動の芯にもなっています。売るために作るのではなく、生活に必要なものを自分の手で作って暮らす。もちろんプロの職人が作るものよりも見劣りはするんですけど、自分で作ったもので暮らす充実感って何ものにも代えがたい。だから、それを一緒にやっていこうよって伝えたいですね」

そういう人が増えたら、自分が嬉しいから。「だから結局、自分のためなんです」とフクシマさんは笑う。冬を越す自分たちのためにものをつくっていた人々のように、フクシマさんも「生きるために」ものづくりをしているのかもしれない。

その姿にはやっぱり、“しなやか”な強さがあった。

それぞれの地域と密接にかかわりながら、それぞれの道を歩んできた箒職人たち。いろいろな想いの末に、今、うつくしい箒が日本には残っている。

激動の時代をくぐり抜け、伝統を受け継ぐ決意をし、想いを乗せて箒をつくる。出会った地域や歩んだ道のりは違えど、箒とともに生きている彼らは力強い。それぞれの人生が色濃く映し出された箒は、地域のものであるのと同時に、やはり“彼らの“箒と呼んでいい気がした。

多くのことが移り変わる波のなか、「これからの時代は、こんな生き方をすべき」なんて意見が出てくることもあるけれど、先のことなんて誰にもわからない。ときに「時代遅れ」とまで言われた箒をつくる人たちが、一歩ずつ前に進む姿は、誰にも見えない未来を着実に変えていく方法を教えてくれる。

箒とともに生きると決めた彼らの箒を、一度、見てほしい。

あなたにも「この箒と生きていこう」と思える箒との出会いが、きっとある。

手に取ったら、それは今度、“あなたの”箒になっていくのだ。



【連載インタビュー】箒をつくる人たち(全4回)
第1回 長野・松本箒  米澤資修さん
第2回 栃木・鹿沼箒  増形早苗さん
第3回 中津箒  吉田慎司さん(取材地:北海道)
第4回 茨城県・つくば箒  フクシマアズサさん