【わら細工たくぼ、それぞれの物語(2)】甲斐稔さん(二代目)

わら細工と生きるということ。
わら細工たくぼ、それぞれの物語(2)

「自分のためだったなら、もう辞めてたかもしれない」
二代目 甲斐稔さん

記事:ウィルソン麻菜
写真:川しまゆうこ

棚田が広がる日之影町で、田を耕し、米を育て、わらを綯う「わら細工たくぼ」。彼らが作るしめ縄は、日之影町のさまざまな玄関先に飾られ、家々を守る。それとは別に、彼らが作る「わら細工」の美しさは人々を魅了し、そこに何かが宿っているような気持ちにさせるものだ。

一般的に「わら細工」と呼ばれるのは、わらで作られた草履や鍋敷きなどの生活用品だ。お米を収穫したあとのわらで、農家自身の生活道具を作ったり、農閑期の副収入として販売するなどしてきた。

ところが、わら細工たくぼで生み出される「縁起物としてのわら細工」は、それらとは少し雰囲気が異なる。わら細工のためだけに育てられた「青わら」や丈夫なわらを使って、端正に綯いあげた飾り物だ。

今回お話を伺ったのは、その美しい「わら細工」の生みの親、2代目の甲斐稔さん。

前回、穂積ツヤ子さんに聞いた、たくぼが本格的にしめ縄づくりを始めたときのこと。稔さんは息子の立場から、両親のもとに「しめ縄を作ってみないか」という誘いがあった日のことを、よく覚えているという。

「そのとき、誰がどこに座ってたとか、どんな会話をしたかって詳しく記憶にあるんですよね。当時3歳くらいだったはずなんだけど。どんな新しいことが始まるんだろうっていう、驚きとかわくわく感を覚えています」

幼い頃は、父親がわらを石の上で叩いて柔らかくするとき、わらを押さえるなどの手伝いをしていた。工業高校に進学し就職、退職して地元に戻ってくるまでは自身がわらを綯うことはなかったものの、わらは身近な存在だった。

実家に戻り、当たり前のようにしめ縄づくりを始めた稔さん。「やりたくて」というよりは、たとえば皿洗いを手伝うような、その家に住む者として当たり前の「お手伝い」の一環だったのかもしれない。

そうしてなんとなく始まったしめ縄づくりを、稔さんは結果的に40年以上続けることになる。しかも、酒造会社の社員としてフルタイムで働きながら――。

「解放されたい、とはいつでも思っていたんですけどね」

そう笑う彼が、それでも目の前のわらに向き合い続けた理由。時間の許す限り働いた、2代目・甲斐稔さんの物語。

 

私は竹細工がしたかったですよ。

21歳で横浜の仕事を辞め、地元・日之影町に帰ってきた稔さん。これから何をしようかと考えたときに、真っ先に頭に浮かんだのは小さいときから憧れていた「竹細工職人」だった。

「隣の家に住んでいた竹細工の職人さんを、ずうっと見てきたから。竹がヘビのようにバッタバッタと暴れるなかで、かごがあっという間にできてくる。それを見て、いつか私もああいうものを作ってみたいな、と」

小学校六年生のときに作文に書いた将来の夢は「いつか職人になりたい」。自分の積み重ねてきたものが、ちゃんと作品や道具の形になって表れるところに憧れた。かっこいいな、いつか自分も。その気持ちが、日之影町に帰ったことをきっかけに戻ってきたのだった。

そのまま、父や隣に住んでいた有名な竹細工職人・飯干五男さんに教えてもらいながら、かご作りを始めた。しかし、それを「仕事にする」のを、父は手放しでは応援はしてくれなかったという。

「竹細工の職人になりたいと親父に言ったら、『竹細工の職人だけで生活していくのは厳しい。竹細工が好きなら、仕事をしながら趣味でやればいいじゃないか』と。そう一生懸命言うんですよね。だけど、だけど私は『絶対に竹細工やるんだ!』って聞かなくて、たくさん喧嘩しましたよ」

竹細工やものづくりへの情熱を決して否定はしない。けれど、手仕事だけで家族を養い、生きていくことの難しさを、父自身がよくわかっていたのかもしれない。

反対されながらも、竹を編み続けていた稔さん。竹をはぐ小刀で手をボロボロにしながら、この地域特有の背負いかご、“かるい”を作って売れるほどになっていた。


最後には「はい」と言ってしまったんですね。

しかしその後、稔さんは宮崎県の酒造メーカーに入社、定年まで勤め上げることになる。父のアドバイスに従ったのだろうか、と聞くと稔さんは「いや、全然関係なくて」と首を振った。

「職業安定所の人に『いい会社があるから、ぜひ一度行ってみてくれ』って一生懸命に言われてね。私は竹細工職人になろうと思っていたので、全く就職するつもりはなかったんですが……」

あまりに熱心に勧められるので、断るつもりでその会社へ向かったという。「歴史ある良い酒造会社だ」とだけ聞いて。

「行く途中の分かれ道で、道を間違えてしまったんです。『あ、間違えたなあ……』と、一旦は橋の真ん中で立ち止まったのを、今でも覚えてますよ。引き返そうかとも思ったんですが、『どうせ断るんだから』とそのまま前に進んでしまいました」

間違えた道を進むと、そこにあったのは小さな酒造会社。聞いていた会社名とは違うとわかりつつ、「どうせ断るんだから、『行ってきた』と言えればいい」と中に入った稔さんを出迎えたのが、一緒に働くことになった酒造メーカーの当時の社長だった。

「『就職するつもりはない』といくら断っても、誘われてね。『これから必ず焼酎ブームが来る。いや、焼酎だけじゃない、いずれは酒やビール、ワインも作る総合酒類メーカーになるんだ。きみも一緒にやろうじゃないか』って夢を語るんですよ。あまりにも熱心に言われるうちに、最後には『はい』と言ってしまったんですね」

あの分かれ道が、稔さんの“人生の分かれ道”にもなってしまったのだった。社長の勢いに押されるまま、翌々日には出社、3日後には研修のために金沢に飛んだ。そして、社長の言ったとおり、会社はそこから急成長。次から次へと規模を拡大して、稔さん自身も責任ある立場となっていった。

「働き始めたら、成長する会社での仕事はおもしろい。私も工場長にもなって、もう辞めるにも辞められなかったですよ。だから結局、竹細工職人になることはできなくなったんですよね」

しかし、両親が続けていたしめ縄づくりは、人手が必要な家業だ。春の田植え、秋の収穫を手伝い、そこから年末までは毎晩、両親とともにしめ縄を綯った。

「竹細工はできなくなったけれど、しめ縄づくりは手伝わんといかんからね」

 

父親が教えてくれた、しめ縄を作れば。

仕事の合間に両親の田んぼを手伝い、年末には同じ部屋でわらを綯う。そんな生活をして15年、稔さんが36歳のときに父・栄さんが亡くなった。しめ縄を作り終えた1月に、肺がんで倒れたのだ。

「親父がいなくなったあとも、私が会社勤めをしながらしめ縄を作るのは無理かな、と考えてました。だけど、家や田畑を守って、お袋の生活を支えていかなければいけないでしょ。私の給料からと言っても自分の家族もあったもんですから、どうしよう、と」

このままだと田んぼが荒れて米が作れなくなり、母・ツヤ子さんが生活できなくなってしまう。とはいえ、3人の子どもを含めた家族を養うのに、会社を辞めるわけにもいかない。稔さんが選んだのは、「両方やろう」という無謀にも思える選択だった。

「父親が教えてくれたしめ縄を作り続ければ、家もお袋の生活も守っていけると思って。人間には二十四時間与えられている。会社が終わってから翌日の朝までは時間があるんだから、時間を有効に使えばできるんじゃないかな。いや、どうにかしてやっていかないかんな、という思いでですね」


それから、稔さんの生活はとにかく時間とのたたかいとなった。会社からツヤ子さんに電話をして、その日に何を作るのか、どのくらいのわらが必要かを伝えておき、30分かけて実家へ。

ごはんを食べたら、ツヤ子さんが準備しておいたわらを使って、夜中まで3~4時間、ひたすらわらを綯った。作るだけ作っておけば、山積みになったしめ縄の後処理や片付けはツヤ子さんがおこなった。

「親父が作っていた3倍のスピードを目指していったんですね。そうすれば、親父が9時間かけていたものが、3時間でできるわけですから。いろんな工夫をしながら、作業工程を一つ一つ見直していきました。そうしていくうちに、親父が生きていた頃とあんまり変わらない量が作れるようになっていったんです」

会社で仕事をして、夜は父の分までしめ縄を作り、夜中に田んぼを耕した。時間がいくらあっても足りなかった、と稔さんは当時を振り返った。


祈りや願いを込めて、形を作っています。

しめ縄は、正月に人々が玄関先に飾るもの。つまり、当時の稔さんにとってはしめ縄づくりで大忙しの年末を越えたら、ほっとするのと同時に年明けから作るものが何もなくなるという意味でもあった。

「しめ縄だけでは正月から仕事がなくなるもんですから。腕も鈍るし、作ればできるのに作るものがない。じゃあ何か、一年を通してわらを身近に感じてもらえるような飾りは作れないかと考えているときに、ふと机の上にあったのし封筒が目に入ったんです」

のし封筒にかけられた水引をヒントに、日本古来からある様々な「結び」をわらで表現することを思いついた稔さん。しめ縄づくりのように見本があるわけではない。これまで培ってきたわら細工の技術と発想を用い、人々の暮らしに寄り添う縁起物の飾りを作り出したのだった。

そんな試行錯誤の末に生まれた飾り物が、今のたくぼの代表作「祝結び」だ。右回転の縄と左回転の縄が結ばれたその形は、相対する2つのものがしっかりと“結びつく”姿を表現している。親子や夫婦など、家族の絆や家内安全を祈る縁起物だ。

この他にも、相撲の土俵を飾る青房・赤房からヒントを得た「縁結び」。太陽、地球、月をモチーフにした3つの円を組み合わせた「平和結び」など、それぞれに祈りと意味をこめながら、稔さんはそれまでにないわら細工を作り続けた。

「ちゃんと私たちが込めた意味が説明できると、買ってくれた人も『こういう意味があるんだ』って飾ったり、人に贈ったりしてくれます。そうすると、これはただの物ではなくて、こめられた気持ちが伝わる物になる。ものづくりって、そういうものなんですよね」

定年までの39年間、特に誰にも自分がわら細工を作っていることを言ってこなかったという稔さん。「『お前のところのばあちゃん、わら細工上手なんだからちょっと習ってみたら』なんて言われてね」と、おかしそうに笑う。

その理由は、わら細工があくまでも「家の手伝い」だったからだ。兼業農家の多いこの地域では、会社勤めをしていても休日や帰宅後に農作業をするのが当たり前。稔さんにとっても、田んぼやしめ縄・わら細工作りは「母の生活を守るための実家の手伝い」だった。

「売り上げは全部お袋に渡していました。どれだけ売れてたのかも分からない。いつか定年になって自由にできるようになったら、今度は自分のためのわら細工をすればいい。でもそれまでは、家とお袋の生活を維持するための手段としてわら細工を選んだわけだから。それが早くに亡くなったおやじに対する恩返しかなっていう気もしてね」


辞める理由が、見つからないわけですよ。

仕事の終わりも休日もない、ダブルワークの日々。辞めたくなったことはなかったですか、という質問に稔さんは「いつも解放されたいとは思ってたんだと思いますよ」と明るく答えた。

「でも、辞める理由が見つからないわけです。自分が倒れて動けなくなれば『もう無理だ』って思えたと思うんだけど。時間と体力が許す限り、わらさえあれば、どこに行ってもわら細工は作れてしまうもんだからねえ」

そんな稔さんの言葉を象徴するエピソードが、会社から宮崎市内に転勤を命じられたときのことだ。

「転勤が決まったとき、お袋に『もうお前はしめ縄も田んぼもできんよな』って言われたんだけど『できんことないわ』って。毎週末に帰って田んぼを耕して、月曜日に車に大量のわらを積んで、転勤先に戻りました」

平日は転勤先で、仕事終わりにわらを綯った。そして、部屋いっぱいになったわら細工をまた車に積んで日之影町に帰るという生活を、稔さんは転勤中の3年間続けた。

「そうやって工夫したら、作れる量は転勤前とあんまり変わらなかったですね。いつでもどこでも、やろうと思えばできるもんですから」

傍から見ると、辞める理由は十分すぎるほどあった気がするけれど、稔さんがわら細工を辞めることはなかった。

「私がそのことで思うのはですね、これが自分のためだったなら、そりゃもう辞めてたかもしれないですよ。ところが、誰かのためにやっていることは辞められないんですよね。やっぱり家を守ること、お袋の生活を支えることは自分にしかできない。そう思ってずっと40年近くやってきたんだと思います」


休みが欲しいんですよね。時間が足りなくて。

数年前に会社で定年を迎え、わら細工も息子の陽一郎さんに任せ始めた稔さん。ダブルワークの日々を乗り越え、のんびり過ごしているのかと思ったら、まったくそんなことはなかった。

数年前からハマっているのが、ニホンミツバチと尺八だと教えてくれた。

「山の上や岩場の『この辺りにミツバチが来るかな』というところに巣箱を置いておくんです。数日経って、そこにミツバチがいっぱい巣を作っているのを見ると感動しますね。自分がイメージしたことが実現するのが楽しいです」

現在、山の上に120個もの巣箱を持っている稔さんのはちみつは、「じいちゃんのはちみつが好きじゃ」と言ってくれる孫たちにほとんどあげてしまうのだという。「クリームチーズにはちみつをかけて、上からナッツを振って。これが焼酎にピッタリのつまみになる」と嬉しそうだった。

実は稔さん、過去に二度ニホンミツバチに刺され、病院に運ばれている。アナフィラキシーショックで意識を失ったこともあり、次に刺されたら死ぬ可能性があるとも医師に言われているという。二度目の入院のあと、養蜂を続けることにもちろん家族は大反対だった。

それでもなお、稔さんは命がけでニホンミツバチの巣を覗く。

「限りある命を、ただ長く生きるんじゃなくてやりたいことをやって生きていきたい、と家族に伝えました。そのうち、嫁が『お父さんがここまで言うんだから、やらせなかったことを後悔する日が来るかもしれん』と、子どもたちを説得してくれたんです。たくさん苦労かけてきたけど、いい女房です」

また、稔さんがニホンミツバチの巣箱を置き続けるのには、もう一つの理由がある。

それは数年前、しめ縄を作り続けたことで、手が重度の腱鞘炎になってしまったときのこと。痛みを取るために手術をする方法しかないけれど、握力の低下によりしめ縄を綯うことはできないだろうと言われていたという。

そんなとき、全身をミツバチに刺されてしまうアクシデントが起きた。絶望のなかだったが、徐々に全身の腫れが引いてくると、なんと腱鞘炎がすっかり治っていた――という嘘のような本当の話だ。

「今もわら細工を作り続けられる、家業を絶やさずにいられるのはミツバチのおかげなんです。ミツバチを大切に思っているのは、もちろん楽しいということもあるけど、この出来事を感謝しているからでもあります」

最後に、稔さんの夢を聞いてみた。

「これからの夢ですか。最近、海釣りに凝ってるので魚釣りに行きたいですねえ。だから休みが欲しいんですよね。ミツバチにも行かにゃいかんし、魚釣りも行かにゃいかんでしょ。家の田んぼのこともあるけど、わら細工も作らにゃいかんし……」

それを聞きながら、妻の博子さんが「家にいないのが当たり前。いると違和感があるほどなんですよ」と笑った。

家のため、母のため、人のため。誰かのことを想って必死に走り続けてきた稔さんは、もう止まる必要がないのかもしれない。ようやく自分のために時間を使うことができるようになった今も、そのエネルギーは留まることを知らない。

( 次回は三代目・甲斐陽一郎さんの物語。こちらよりご覧ください >