【わら細工たくぼ、それぞれの物語(1)】穂積ツヤ子さん(初代)

わら細工と生きるということ。
わら細工たくぼ、それぞれの物語(1)

「なんでって、おもしろいからよ」
初代  穂積ツヤ子さん

記事:ウィルソン麻菜
写真:川しまゆうこ

宮崎県の最北にある、山に囲まれた小さな町。それが「日之影町」だ。町土の約91%が山林という、「自然豊か」という言葉のイメージを通り越して、山々のなかに人々が居場所を見つけたようなところ。

そんな、人の手が届かない自然を常に相手にする場所柄だろうか。日之影町にとって「神様」はとても近い存在で、人々はこの町を「神話のふるさと」と呼ぶ。神話や伝説が数多く残る高千穂町と同じように日之影町にも数々の神の軌跡が残っており、「日之影」の地名自体が伝説を由来としているほどなのだ。

日之影町は傾斜のある地形上、広い田んぼを作ることができない。そのため管理の大変な棚田でお米を育てる農家が多いのだが、それがまた日之影町の美しい風景のひとつにもなっている。

そんな棚田のなかにあるのが、今回の舞台である「わら細工たくぼ」。多くの神話スポットがあるこの地域に欠かせない「しめ縄」を作る人々の暮らす場所だ。

正月飾りとしての印象が強い神祭具のしめ縄だが、この地域の人は同じものを1年間ずっと玄関先にかけ続けるという。正月にかけたしめ縄が結界として、家の中や人々の暮らしを守り続けると考えられているのだ。

もともと、自分たちが作った稲のわらでわらじなどの生活道具を作っていた夫婦が、しめ縄づくりを始めたところから「わら細工たくぼ」 の歴史は始まった。それが図らずも子や孫に伝わって、現在「たくぼ」ではしめ縄のみならず、全国の人々の心に残るような飾り物などを作っている。

ちなみに、「たくぼ」というのは彼らの名字ではない。昔から、この集落ではそれぞれの家に屋号がつけられており、この家の屋号が“たくぼ”だったのだ。由来や漢字はわからない。けれど慣れ親しんだその屋号を、彼らは家業の名付けに使った。

紐状のものを撚り合わせていく動作を“綯(な)う”と表現することを、たくぼの人々に教わった。両手でわらを撚り合わせる姿は「神に祈るときに似ている」と言う人もいる。

田んぼで丁寧に育てたわらを、ひとつひとつ、しっかりと“綯う”。そんなふうにして、わら細工と生きてきた4人の人々を取材した。今回は、たくぼの始まり、初代・穂積ツヤ子さんの物語。

 

土間でね、“かるいの緒”を作って。

「通っていた学校の、先生の奥さんのところに縫い物に行きよってね、そのときに『いい人がおるが見合いしてみらんねえ』って言われたから」

1954年(昭和29年)4月29日。24歳で、日之影町の穂積家へお嫁に来たツヤ子さん。夫となった穂積栄さんは、通っていた高等科の一学年上で「とても頭の良い人だった」と、当時の印象を教えてくれた。

穂積家でもツヤ子さんの実家でもお米を作っていたことから、結婚後も「当たり前のように夫婦で田んぼに出ていた」と振り返る。

「わら細工は、小学校4年生の頃からわらぞうりを作って売りよったからね。お嫁に来てからも土間でね、“かるいの緒”を作って、高千穂町に売りに行って」

“かるい”というのは、この地域特有の背負いかごのこと。竹を割いたものを編み込んだ丈夫なかごは、上部が広がった物が取り出しやすい形で、当時はどの家庭でも使っていた。急峻な山の斜面を歩くのに適した形になっており、農作業にも欠かせない道具だったという。


ツヤ子さん夫妻の家の隣に住んでいた、全国に名が知れるほどの竹細工職人さんに頼まれ、かるいの肩紐の部分をわらで作るようになったという。2つセットで25円。10セットごとにお店に売りに行った。その緒の部分を取り替えながら、人々はかるいを長く長く使ったのだ。

「でも、かるいの緒を作るのは夜だけよ。農作業のあと、わらを石で叩いてやわらかくして準備しておく。夜ご飯を食べたら、わら細工の時間ね」

そう、あくまでもわら細工はお米を作る人々の「副業」。早朝から夕方まで田んぼ仕事をしたら、そのあと寝るまでの時間を制作にあてた。


それくらい好きじゃったんです。

田んぼ仕事のあとにわら細工づくり。ただでさえ長時間働いたツヤ子さんたちだが、さらにそのタフさに驚くのは、この地域で田んぼに使われる用水の事情を聞いたときだ。

実は、日之影町の田んぼに用水が届くのは、夜中の12時になってから。35キロ先の山奥から水を引いてくるとき、昼間は水路の途中までしか水が来ない決まりなのだという。最終地点である日之影町に用水が届くのは、人々が寝静まったあとだった。

「生活水はね、どこぞの湧き水から担いできよったの。でも田んぼは、夜中に水が来るのを待って、自分の田んぼに入れなきゃいけんから。雨が降れば潤沢じゃったけど、晴れてる日はそんなして苦労したね」

信じられないことに、たくぼのある椎谷集落の用水は“今でも”夜にしか来ない。この地域では、夜中に田んぼで作業することが当たり前なのだ。わら細工づくりは、そんな田んぼ仕事の「合間の仕事」であった。

夜中に田んぼに水を入れ、朝方から1日中外で仕事。夜にわらを綯い、そして夜中にまた田んぼに出る。想像を絶するような大変な日々だったはずなのに、当時を振り返りながらツヤ子さんは楽しそうに目を細めた。

「でも、わら細工づくりが好きでね。うん、好きじゃったんです。楽しくて、毎晩11時頃まではしよったかな。作ったものを買ってもらえる、仕事っていうものが好きでね。かるいの緒を売ったお金が3,000円貯まったときに、長男と次男の三輪車を買うてやったの。もう喜んでねえ」

写真:山木博文

 

私は隣に座って、しっかり握っちょるのよ。

ツヤ子さん夫妻のところに、しめ縄づくりの話がやってきたのは突然だった。熊本帰りの知り合いが、見慣れない鶴の形のしめ縄を片手に訪ねてきたのだ。

「『わら細工しよったら、このしめ縄を作って売れるんじゃないか』って言われてね。じゃけど、初めて見たんで、もらったものを一旦全部ほどいてね。どうなっちょるやろかって。構造を考えて作るっちゅうの、なかなか難しかったです」

今まで作ってきた“かるいの緒”やわらぞうりとは全く違う、あたらしい形。夫婦で試行錯誤しながら、作り方を研究していった。

もらった見本を分解してみると、どうやらわらの芯を中心に綯われた2本の束がしっかりとひねられて、しめ縄ができていることがわかった。

夫婦で横並びに座って2本のわらの束を持ち、ツヤ子さんがしっかりと押さえたわらに、栄さんがもう1本を巻きつけていく。夫婦二人三脚の作業で胴体部分を作り、栄さんのお母さんが鶴の羽根などの装飾部分を作った。

「私は隣に座って、しっかり握っちょるのよ。ひねる人は力がいりますから、丈夫な人じゃないと」

夜だけしか作業ができないため、がんばっても「1日あたり50個作るのが限界だった」とツヤ子さん。とはいえ、10月にわらの準備ができる頃から年末までの数ヶ月で、4,000個を作り上げたという。


わら細工で、私の一家はやっていけよるなって。

華やかな鶴のしめ縄は話題を呼び、売れ行きは好調だった。

「宮崎テレビに呼ばれて紹介してもらったの。その日の日当がね、1人5,000円だったですよ。私と旦那と姑のばあちゃんにそれぞれ。わら細工を1つ400円で売ってた時に1万5,000円も入ったでしょ。もう、100万円もらったような気がしたわ」

そう言って笑うツヤ子さんだが、たしかにしめ縄を作っていなかったら、起こらなかったご縁だ。そして、そこから他のご縁もつながっていくことになった。

テレビ出演の際に、10個ほどしめ縄を持っていったツヤ子さんたち。放送でアナウンサーが「スタジオにあるので欲しい方はどうぞ」と言ったために、人々がスタジオに押しかけた。

「スタジオを出てみたらズラーッと行列ができちょった。びっくりした。みんな、鶴を買いに来ちょったの。帰ってから、ばあちゃんが『この商売してよかったねえ』って言うてね。私も、わら細工で一家はやっていけよるなって」

そのときにつながった取引先が、川南町にある重度心身障害者のための施設だった。ツヤ子さんたちのしめ縄を、病院に子どもを預けているお母さんたちが販売し、その利益を病院におさめていたという。その後20年にも渡り、関係が続いた。

「トラックに1,000個のしめ縄を積んで行かしたときに、私は頭を下げたの。ありがとうございますって」


とっても楽しい仕事をしてます。

最初にしめ縄を作り始めてから、63年が経った。その間、ツヤ子さん夫妻が始めたものは途絶えることなく、少しずつ形を変えながら今も続いている。

夫の栄さんが亡くなったあとは辞めるしかないと思ったしめ縄づくりを、長男の稔さんが継いだこと。年末以外に何か作れるものはないかと、飾り物を中心とした新しいわら細工を始めたこと。そうやって連なってきたものが、わら細工たくぼの歴史を作ってきた。今では孫の陽一郎さんや外からの協力者も含め、全部で10人前後がここでわら細工やしめ縄を綯う。

「わら細工やしめ縄づくりに、こんなふうに多くの人が加勢してくれるようになって、見たこともないようなわら細工を作って出しよるね。息子や孫や、その奥さんまでみんなでうちにおってくれるっていうのは嬉しい。朝は、庭でみんなでラジオ体操して。毎日がとっても楽しいです」

ツヤ子さんは今、90歳。「たくぼのばあちゃん」として今でも田んぼに出るし、わらも綯う。それに加え、畑で大量の野菜を作っては配り、電動シニアカーを乗り回してどこまでもゆく。

その元気の良さは、一緒に過ごす若者ですら驚くほどだ。その秘訣を聞くと「毎晩のビールだね」と、おちゃめに笑った。毎晩1本空ける、350mlが楽しみなんだとか。

そしてもうひとつ。ツヤ子さんの取材中、何度も「楽しいから」「おもしろいから」と言うのが印象的だった。重労働の田んぼ仕事さえ、「ここまではやるぞって、いつも決めるのよ」と嬉しそうに教えてくれる。ああ、本当に「仕事」というものが好きなんだ、と伝わってくる。

もちろん「生きるため」であったと思う。家族を食べさせ、この町で生きていくために、ツヤ子さんはわらを綯い始めた。けれど、それだけの理由であったなら、子どもや孫が大きくなった今もなお、自ら田んぼに入り続けているものだろうか。

「うちのしめ縄を飾ってもらえただけで嬉しいなあと思います。町で見かけるといつも『あ、私のところのしめ縄じゃがねえ…』って思う。いいなあって思いますよ。いろんなしめ縄があるけど、うちのが一番いいねえって。本当ですよ」

作ったものが売れ、息子に三輪車を買える喜び。人々の玄関先に飾られることの誇り。「楽しい」と言える仕事が続く幸せ。

ツヤ子さんがわら細工を続けてきた理由は、彼女自身と大切な家族が「“豊かに”生きるため」だったのかもしれない。

「わら細工をずっとやってると、何かいいことがあると思ってね」

そう信じてわら細工と生きてきたツヤ子さん。たくぼでしめ縄をひねるとき、横でわらをしっかりと握る補助の位置には、今日も90歳の「ばあちゃん」が座る。


次回はツヤ子さんの長男・甲斐稔さんの物語。
こちらよりご覧ください >

 

 

 

 

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