【わら細工たくぼ、それぞれの物語(3)】甲斐陽一郎さん(三代目)

わら細工と生きるということ。
わら細工たくぼ、それぞれの物語(3)

「受け継いだのは“伝統”ではなくて“熱”なんですよね」
三代目 
甲斐陽一郎さん

記事:ウィルソン麻菜
写真:川しまゆうこ

農家の副業として始まった、しめ縄づくりとわら細工。初代の穂積栄さんとツヤ子さんが始め、2代目の稔さんが母の生活のためにわらを綯い続けたことで、その技術は受け継がれてきた。

そして今、たくぼの中心にいるのは、3代目となる甲斐陽一郎さんだ。祖父と祖母、そして父がしてきたように、田を耕し、収穫したわらを綯い、しめ縄だけでなく飾り物まで幅広いものを作り上げる。

ただ、陽一郎さんの働き方でこれまでと大きく違うのは、わら細工を「生業」にしようとしていること。祖父や祖母の時代も、父の時代も、それだけで生活するのは難しいものと見なされ、あくまでも「副業」の域を出なかったわら細工を、仕事として成り立たせるべく挑戦し続けている。

「専業の仕事にしていくこと。それ自体が挑戦で、僕は楽しみながら必死にやっている感じなんです」

周りからの「継いでほしい」という責任も、「伝統を残して」という重圧も、ほとんどなかったと陽一郎さんは言う。だからこそ、彼は自分自身の挑戦として、わらを綯うことができている。

35歳で「わら細工職人になろう」と決めて、7年。わら細工を「生業」に変えることにこだわった3代目・陽一郎さんの物語。


憧れてたじいちゃんの夢を叶えられたらなって。

「じいちゃんに会いに来ると、いつも何かを作っていて。パッと竹馬や水車を作ってくれたり、縄跳びを練習するジャンプ台を作ってくれたり。そういう、ものづくりをしている姿に憧れはずっとあったのかもしれません」

栄さんが作ったはしごや仕事道具が、今も仕事場に残っていることを陽一郎さんは誇らしげに話す。器用で、何でも作り出せてしまう「じいちゃん」が、陽一郎さんのなかで大きな存在であったことがわかる。

「じいちゃんが昔、学校の先生になりたかったという話を聞いて、自分がそれを叶えられたらなって思ったのがきっかけだったんです」

大好きだった祖父の夢がいつのまにか自分の夢となり、陽一郎さんは小学校の先生となった。教員として子どもたちと過ごした10年間、陽一郎さんにとっても天職だと感じる仕事だったという。それを辞めたのは、何かが嫌になったわけではなく、わら細工職人になるためでもなく、しいて言えば「自分の生き方をもう一度模索するため」だった。

このとき二度と振り返らず前に進んでいこうと心に決めた陽一郎さん。しかし、当時は「生きていく手段が何もなかった」という。絶望感のなかで「これからどんなふうに生きていきたいのだろう」そう考えていたときに、ふと、わら細工に目が止まった。

「周りから『継いでほしい』とも思われていなかったし、僕自身、継ぐようなものっていう認識もなかった。でも、ふと、これを仕事にできたら自分らしい生き方ができるのかなって直感のようなものがあったんです」

わら細工を仕事にしたい、という直感のままにわらを手に取った陽一郎さん。気がつくと、作業場にこもって黙々とわらを綯い始めていた。


自分にはもう、これしかない。

当時、35歳。いくら幼い頃からわらが身近にあったからといって、職人の道の歩むには遅いスタートだった。その月日を埋めるように、2年間、朝から晩までわらを綯い続け手を鍛えたという。実際に始めてみると、確かにものづくりの喜びがあったと陽一郎さんは振り返る。

「仕事が形になるってすごくいいなと思います。幼い頃から絵を描くことが大好きで、作品に仕上げて誰かにプレゼントしたり、自分でコレクションしたりしていたんですよね。大人になってからも美術や建築に目が留まることがよくあって。自分がしたことが目に見えて形になる仕事に魅力を感じていたのかなと思います」

父・稔さんに教わりながらも、できる限り『見て盗む』。「教えてもらったとしても1回だけ」と、二度聞いたことはない。自分のなかでそんなルールを決めて、技術を身に着けていった。

とはいえ、家族が陽一郎さんの決断をすぐに受け入れられたわけではない。稔さんのように副業としてならまだしも、わら細工職人を生業として生活していくなんて現実的ではない、とみんなが思っていたのだ。

「実際に父から『仕事にするのは難しいな』と言われたときは、自分のなかでわかってはいたけど、やっぱりその言葉が重たかったですね」

ダブルワークをしながらわら細工を続けてきた、父だからこその言葉。陽一郎さんがそれでも辞めなかった理由を聞くと、「諦め」という意外な返事が返ってきた。

「子どもの頃から、一度『これだ』と思ったら『もうこれしかない』と思う性格なんです。そういう意地……というかですね、もう『これしかない、これで生きていくしかない』と思い詰めていったんですよ。そういう、“良い意味での諦め”が、周りの心配する声や自分の不安に負けなかった理由かもしれません」

「それしかできない」はネガティブにも聞こえるけれど、ある意味、自分を鼓舞するエネルギーにもなる。陽一郎さんのなかで「わら細工を生業に」という決意は、月日が経てば経つほど、わらを綯えば綯うほど、強いものになっていった。

 

喜び半分、畏れに似た感情が半分、という感じなんです。

もう一つ、陽一郎さんの背中を押したのが、自分が作ったものに対する声だった。

「わら細工を作り始めたとき、誰とのつながりもなかったなかで『わら細工いいもんだね』って声をかけてくれる人が少しずつ増えていって。自分と親しい人から褒めてくれるというわけではなくて、ただ純粋に自分が作ったものを認めてくれる人たちが背中を押してくれたと思ってます」

素敵なわら細工だね、と買ってくれた人。うちで紹介させてくれないか、と声をかけてくれたお店の人。そんな人たちがいたから、わら細工は価値を持つことができたと陽一郎さんは言う。

「ずっと、自分が作ったものに価値づけることに、すごく気が引けてたんですね。でも、これまで出会った方々が、自分のわら細工に価値を見て広げてくれた。それが一番の後押しだったな、と」

そうやって見守り、後押ししてくれた人たちに生業としてのわら細工を見せることも、陽一郎さんの原動力になっている。

自分が作って形になったものが、誰かに認められ迎えられていくのは、ものづくりを仕事にする上で大きな喜びだ。しかし、陽一郎さんは同時に「畏れにも似た感情」を抱くという。

「僕たちのわら細工が多くの方の暮らしに入っていることを感じますし、しめ縄も町を通るたびにいろいろなところで見かけます。大切にしてもらえるものを作っているっていうのは、本当に大きな喜びですね。ただ、それと同時に、こんなにも大切に暮らしのそばに置いてもらえるものを、自分が作り出しているっていう畏れにも似た感情があるんです。だから常に全力で作らなければと気が引き締まっているんだと思います」

その「畏れ」が、陽一郎さんのわら細工をより丹精に、より繊細にしているのかもしれない。形あるものづくりの仕事に憧れた陽一郎さんだが、ある意味で完成がない奥深さや果てしなさも感じながら、一つ一つわらを綯っている。

受け継いだのは“伝統”ではなくて“熱”なんですよね。

『伝統とは炎の維持であり、灰への崇拝にあらず』。

作曲家・指揮者であるグスタフ・マーラーのこの言葉を、陽一郎さんが教えてくれた。先人たちがつないできた「伝統」は大事なものだけれど、それだけに捉われてしまうことの恐ろしさも表現したこの言葉は、手仕事の世界でもよく紹介されるという。

「何十年と続いてきたものだから残さなきゃいけないっていうことではなくて、炎を維持してきたのが結果的に“伝統”になっているのかな、と思っていて。自分が生きていく手段として熱を持って取り組んできたから、こうやってわら細工が生きている。僕がじいちゃんやばあちゃん、父から受け継いたものがあるとすれば、わら細工に対する“熱”なんだろうと思っているんです」

生きる道として選んだわら細工。伝統を残すとか、家業を継ぐとか、そういうことではなく、陽一郎さんが「自分らしく」生きる道。

これまでお話を伺ったツヤ子さんや稔さんも、同じだったのかもしれないと思った。目の前の家族や自然を守り、自分自身の人生を納得して生きる手段。その力強い熱の矛先が、たまたま目の前にあった「わら」だったんじゃないだろうか。

「自分の人生で、やっぱり仕事って一生付きまとってくるもの。社会の中で誰かが用意してくれた椅子に座ることは、もう経験できた。だから今度は、自分がしたいと思えたわら細工の仕事を作るところから挑戦していきたいですね」

 

歩んでいくその先で、見える景色が変わってきた

陽一郎さんが受け継ぎ、大きくしてきた“熱”は、その灯火を少しずつ分火させている。

現在、たくぼでは10人ほどで田んぼやわら細工の仕事をおこなう。60年以上前、栄さんとツヤ子さんが2人で始めたものに、家族が増え、近所の人たちが手伝ってくれるようになり、「一緒に働きたい」という若者も現れた。

「わら細工は、分業制が成り立ちやすい仕事が多いと思っています。田んぼ仕事だけでなく、わらの選別などの細かい仕事が多岐にわたるので、近所のじいちゃんやばあちゃんにも果たしてもらえる役目があるんです。何人かでやるのに向いた仕事だなっていうのは、以前から何となく思っていました」

とは言いつつも、陽一郎さんが意識的に人を増やしてきたわけではない。「生業にしたい」という想いで必死に走る陽一郎さんの元に、1人また1人と仲間が増えてきたのだ。

「お手伝いしてくださっている地域の方や自分の両親以外に、現役でわら細工を生業としているのが僕を含めて3人。この3人については、わら細工で生活にしていかなきゃいけない厳しさはあります。でも、みんなで課題を乗り越えながら、達成感とかやりがいを共有していけるので、僕としては1人で仕事をするより今の形が好きだなと思いますね」

わら細工を生業にし、その目標に向かってともに進む仲間がいること。7年前に多くの人が「難しい」と言った未来が、実現しつつあることを陽一郎さんはどう思っているのだろうか。

「本当にたくさんのいい出会いと環境が、僕を助けてくれて。たしかに今、あの頃に思い描いてたずっと先にいるのかなと思います。でも、計画を立てて辿り着いたわけじゃなく、目の前のことをやっていくなかで、結果的にこうなったという感じですね」

ただ、ひたすらに目の前のわらに向き合ううちに、気づけば遠くまできていた。それは、毎年何もないところに籾種を植えて、芽が出て、稲が成長して、わらを綯って……という、ゼロから始まってはリセットされることを繰り返すこの仕事だからこそなのかもしれない。

「今までも、自分たちが歩んでいくその先で、見える景色が変わってきた。あの頃の自分たちに見えていた景色と、今の景色はいつの間にか違っていて。そういう一年一年を積み重ねた時に、これからどんな景色が見えるのかなって楽しみなんですよね。だから今は、地道に目の前の仕事を積み重ねたいと思っています」

受け取った“熱”を灯しながら、陽一郎さんは稲を育て、わらを綯う。コツコツと丁寧に作り上げたその先にある、今まで見えなかった景色をみんなで見るために。

最終話は、横浜から移住し たくぼの仲間入りをした 山木博文さんの物語。
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