【わら細工たくぼ、それぞれの物語(4)】山木博文さん

わら細工と生きるということ。
わら細工たくぼ、それぞれの物語(4)

「“誠実に生きること”につながるから」
山木博文さん (2016年 横浜から移住)

記事:ウィルソン麻菜
写真:川しまゆうこ

初代・ツヤ子さんが夫の栄さんと60年前に始めた、しめ縄づくり。2代目・稔さんがダブルワークをしながら、その技術を受け継ぎ、3代目・陽一郎さんが副業から「生業」として成り立たせるべく、挑戦を続けてきた。

しめ縄やわら細工、そしてたくぼの人々に魅せられ、日之影町への移住を決めた人がいる。それが、2015年に横浜からやってきた山木博文さんだ。

「ずっと研究者を目指して、遺伝子の勉強をしてたんです。昔から物事の根本にあるものが知りたくなる質で。動物や植物が、なぜこれほど様々な姿形になったのか、興味があったんです」

大学、大学院で遺伝子の研究をしていた山木さんが、なぜ今は田んぼを耕し、わらを綯うことになったのか。連載の最後は、自分の生き方を模索した末に日之影町・わら細工たくぼに辿り着いた、移住者・山木博文さんの物語。


初めて“感覚”が味わえたというか。

「僕、あのときの立ち並ぶ木の間から差す木漏れ日の美しさや木の樹形、枝ぶりが、今でも忘れられないんです」

横浜で生まれ育ち、東京の大学院に通っていた山木さんの人生が大きく変わったのは、日光の国立公園だった。それまでずっと研究者を目指し、遺伝子の研究を続けてきた山木さんだが、当時はその未来にモヤモヤとした気持ちを抱えていたという。

「遺伝子にもいろんな研究があるんですが、僕の場合は統計学が主でした。統計学では、AからBに変わることの95%が正しかったら、それは正しいこととされることが多いんですね。それが何かすごく……雲を掴んでいるような感覚があったんです。自分がやってることは本当に正しいのかなと思い始めたら、もう止まらなくて」

数字を見ただけで何かを判断することが果たして正しいのか。自分が自信を持って100% 正しいと言い切れないことに答えを見出す世界への葛藤がある中で、山木さんはひとり、日光に向かっていた。

「1人で散策していたら、一気に霧が晴れたというか。自分が体で感じることがすごく正しいことのように思えました。小さい頃からそんなに自然に触れることもなくて、ずっと研究室にこもりきりだったので、このとき初めてしっかり自分の足で歩いて、自然と触れ合ったのかもしれません。他の人からしたら普通なのかもしれないですけどね、こんなにもリアルな感覚が味わえるんだなと思いました」

木漏れ日の眩しさに気が付いたことをきっかけに、木の表面の質感や鳥の鳴き声、直接肌で感じる外の気温まで。山木さんのなかで初めて“感覚”というものが震えた。

「それで心を動かされて、研究者じゃなくて環境省のレンジャーになりたいなと思ったんですね。そこからは大学の研究を進めながら、国家資格であるレンジャーになるための受験勉強を始めました」

自分に“感覚”を教えてくれた自然を守り、伝える役目。それを、野生動物の保護や国立公園内の管理を担うレンジャーに見た山木さんは、勉強の末に受験。筆記試験に見事パスした。

「でも、面接で落ちてしまいました。そこで初めて挫折っていうか、自分が思い込んでるだけでは、稚拙なものでしかないのかもしれないなって思ったんですよね」

山木さんが受けた国家公務員の場合、一度筆記試験に通れば3年間は免除される。1年後の試験を目指すあいだ、どうやって過ごすべきか。机上ではない、実際の自然のなかでの暮らしを求め、山木さんが見つけたのが『緑のふるさと協力隊』という制度だった。

 

ああ、こんなに清々しい仕事はないよなって。

NPO法人地球緑化センターが運営する『緑のふるさと協力隊』は、地域と若者をつなぐプラットフォーム。期間は1年限定で、住居や生活費などを支給されながら、派遣された地域でさまざまな活動をしていく。

この制度に応募し、山木さんは2015年に日之影町へ降り立った。初めての地方、初めての九州だった。

「まず、方言で言葉がわからない。全体の91%が森や山である町のなかにポツポツと人々が暮らす風景は、もうすごいカルチャーショックでした」

活動は、基本的には協力隊員が自ら主導でおこなう。前任者の活動先を引き継いだり、どのようなニーズがあるのかを調査しながら、山木さんも少しずつ日之影町のことを知っていった。そんななか、わら細工たくぼとの出会いは派遣されてすぐにやってきた。

「日之影町にはどんな工芸品があるのかなと思って調べていたら、陽一郎さんが他の作り手さんたちとおこなった企画展のフライヤーを見つけたんですよね。日之影町にこんな工芸品があるんだと思って、すぐに連絡したんです」

 

山木さんが初めてわら細工たくぼを訪れたのは7月。最初は様子を見させてもらう程度だったのが、徐々に手伝うようになったという。

「本来はいろいろな活動を幅広くするべきだったと思うんですが、多い時は毎日のように通って。手伝ったり、話を聞いたりするのが、もう楽しくてですね」

山木さんにとって、初めてのものづくりの現場。何もないところから自分の手で何かを作り出すことを目の当たりにし、人生を懸けてそれに取り組んできたたくぼの人々にどんどん惹かれていった。

「自分たちで育てたものを使って、自分たちの手で物を作り出して、それを売ってお金を得て、それでまた新しく作っていく。もちろん育てたお米も自分たちで食べる。そういう仕事がすごく“確か”な感じがして、ああ、こんなに清々しい仕事はあんまりないよなって思ったんですよね」

日光で感じた、自分の体や手や、感覚を使って感じるままに生きることを何年も体現してきたたくぼの人々に、山木さんが惹かれていったのは自然なことなのかもしれなかった。

 

真っ先に浮かんだのが父の手紙でした。

協力隊として与えられた1年間は長いようで短く、日之影町での暮らしに慣れた頃には派遣期間の終わりが近づいていた。その頃から、山木さんはこのままたくぼに残ることを考え始めていたという。

「お手伝いをしながら『自分はこれをやっていくんじゃないかな』って、なんとなく思い始めていたんです。自分の感覚を大切にしたいという気持ちでした」

その感覚を後押ししたのが、実は父からの手紙だったと山木さんは少し照れくさそうに教えてくれた。

「小学生くらいのときにもらった、手紙というか誕生日プレゼントにくっついてるちょっとしたメモだったと思うんですけど、それがすごく記憶に残ってるんです。子どものときは全然何とも思ってなかったはずなのに、大人になって『どう生きていきたいのかな』って考えたときに、真っ先に思い浮かんだのが父の手紙で」

書いてあったのは「誠実に生きろ」という短い言葉。

研究者、レンジャー、職人。いろいろな仕事を思い描いてきたなかで、初めて職業ではなく「どう生きたいのか」を考えたとき、父のその文字が浮かんだのだった。

「手紙を思い出して、すごくしっくりきて。僕は有名になりたいわけでも、お金持ちになりたいでもなくて、ただ誠実に生きたかっただけなんだなって思ったんですよね。たくぼでこんな清々しい仕事をずっと続けることができたら、それは誠実に生きるってことなんじゃないか。そう思って、陽一郎さんに働きたいとお願いしました」

“ 私自身がずっと大切にしている言葉を贈ります。 誠実に生きること。

父のその言葉は、何年も経ってから息子のもとへ本当の意味で届き、彼の決断を後押ししたのだ。

一方で、わら細工を生業にしていくことを目指していた陽一郎さんにとって、人を増やすというのは大きな決断だった。自分ひとりでも生活していけるかの挑戦に、移住者の山木さんを加えることに迷いもあっただろう。それでも、山木さんの強い想いを受けて、陽一郎さんは彼を仲間として迎えた。

「移住に必要な車を買うお金を貯めるために、一旦は日之影町を離れて半年ほど住み込みのバイトをしていたんです。陽一郎さんからは、その間も気持ちが変わらなければ連絡してくださいって言われていたんですが、やっぱり気持ちが全然ブレなくて。8月頃『わら細工がやりたいです』って電話をしたのを覚えてます」


この仕事が、自分の“生き方”につながるから。

2016年、正式にわら細工たくぼの一員となった山木さん。黙々とわらを綯ったり、「ヒゲ切り」と呼ばれる仕上げの作業をひたすら続けるのが好きだという。お昼休憩がなければ、何時間でも綯い続けられるという集中力は、学生時代の勉強や研究で培った根気強さから来ているのではないだろうか。そう言うと「だといいんですけど」と笑った。


今、彼がたくぼの一員として見ているのは、陽一郎さんと同じ「わら細工を生業に」という未来だ。

「仕事としてのわら細工への挑戦をこれからも続けながら、ずっと長い間、わら細工やしめ縄を作っていくことができたらいいなっていうのが一番です。それがこの日之影という地域や伝統、自然を守ることにつながっていくんじゃないかと考えています」

協力隊として日之影町を回っているとき、技術はありながら時間を持て余している高齢者の人々に出会ったという山木さん。現在、たくぼで手伝いをしてくれている近所の人たちと同様に、そういった人々を巻き込みながら仕事を広げていくことも考えている。

「今、日之影町で農業をしている人のほとんどが70代以上です。跡継ぎのいない田畑はどうなるのかなと考えたとき、田んぼだったら僕たちにも何かできるんじゃないかって考えていて。この棚田の景色を、僕たちが仕事を続けることで残せたらいいなと思いますね」

最後に山木さんの夢を聞いてみると、そこには未来に迷う青年の姿はなく、芯のまっすぐ通った答えが返ってきた。

「これからもしめ縄を作って地域の安全を祈ったり、わら細工で誰かが誰かを大切に想う気持ちを増やせたらいいなって思ってるんです。そうやってこの仕事を続けることができたら、それが『誠実に生きること』につながるから」

自分の選びたい生き方と、目の前の仕事がぴったりとリンクする。そんな山木さんの人生は、目の前の田んぼや自然、人と向き合うことで実感をともないながら動いていく。あの日の木漏れ日が導いてくれた小さな町、日之影町で。

写真:わら細工たくぼ


仕事を作る、家を守る、自分の生き方を考える。

これまで話を聞いた4人の、どの人生も「自分らしい生き方」を模索したとき、傍らにわら細工があった。わら細工たくぼの歴史は、各世代が目の前の人生を必死にわら細工と生きた証でもある。

「受け継いだのは“伝統”ではなく“熱”だ」と、陽一郎さんは言った。その“熱”は――わら細工たくぼのバトンは、間違いなく引き継がれている。

これから、ここでどんな物語が続いていくのか。数々の手から生み出されていく美しいわら細工やしめ縄とともに、そこに込められた物語を追いかける。そんな物の向こう側を見るような楽しみ方があってもいいのではないか、と思う。