カゴアミドリ

               

「米澤ほうき工房」のほうきづくり

長野県の「松本箒」は、約150年の歴史をもつ伝統の手仕事。
松本市の南端に位置する旧芳川村・野溝地区は、かつては100戸以上が箒づくりに携わる一大産地でした。

今回、ウェブ受注企画にご協力をいただく米澤資修(もとなお)さんは、「米澤ほうき工房」の三代目の職人です。
住所は隣の塩尻市ですが、野溝の中心部から2キロほどの距離の工房で、代々ほうきづくりを続けています。

初代は、祖父の米澤八郎さん。いかにも職人気質の腕のよい職人だったそう。
年に数回は自ら行商へ。県内の場合は汽車のコンテナ一杯に箒を積みこんで、旅館に長期滞在しながら得意先や家々を順に訪ねるのだそう。すべての箒を売りさばいて上機嫌で帰ってくる姿を、米澤さんはよく覚えているそうです。

そんな八郎さんの働く背中を見て育った米澤さんの父・勝義さんも跡をついで二代目の道へ。
しかし、昭和40年代より徐々に洋式の住宅が増えはじめてくると、畳や板間の部屋が急速に減少。特に、じゅうたんの普及が一気に広まったことにより、掃除機の導入が一気に加速していった時代でした。
箒は、敷物の掃除に向かなかったからです。加えて、都市部の団地やマンションなど集合住宅の増加により、ほこりを外に掃きだすことができない住居環境に変化してきたことも、需要低下の原因となっていきました。

箒職人たちはもちろん、その影響を大きく受けてしまったのが、原料である「ホウキモロコシ」を育てる農家さんたちでした。これまで、箒職人の仕事は分業で成り立っていたのですが、いよいよ最後の農家さんが廃業することとなり、米澤さんのご両親が自ら 栽培・収穫をしなければいけない状況に。譲ってもらったホウキモロコシの種を大切に保管し、手探りでの畑仕事がはじまりました。

それ以来、従来の箒づくりの作業は全体の3割程度。残りの7割は、良質な材料の確保するための畑仕事へと大きく変わっていきました。

5月上旬に種を蒔くと、約3か月後に収穫の時期を迎えますが、その期間中は常に雑草を抜き取り、間引きの作業も必要です。

使える部分は、穂先の部分だけ。一つの茎に、一つの穂しか生えません。長いほうきに必要な穂の量は、約100本。自宅前の1000坪くらいの畑でも、年間で600本程度の材料しかできないそうです。

収穫するのは、最も暑い7月末から8月上旬にかけて。晴天が数日間見込める日を選んで収穫。できるだけはやく脱穀機にかけ、一本一本の穂の向きを確認しながら、まっすぐになるようにアスファルトに並べていきます。その後も、カビや変色を防ぐために、三日間かけて干す作業を繰り返します。

素材の良し悪しを見分けるのは純子さんが担当。完全に水分が抜けるまで、何度も選別作業を続けると、最終的に残るのは全体の半分程度になってしまうそう。その後も、半年かけて室内での乾燥を続けていて、一切の妥協がありません。そのこだわりは、かつてのホウキモロコシ農家さんたちをも大きく凌ぐのではないでしょうか。

二代目の勝義さんは、別の仕事を見つける必要に迫られた時期もあり、資修さんはずっと「跡を継ぐな」と言われて育ってきたのだそう。30代を過ぎるまで、それまでのサラリーマンの生活に何の疑問もありませんでした。

後継者になろうと思ったきっかけの一つは、当時勤めていた地元の酒造メーカーで、取引先の百貨店から「松本箒を取り扱いたい」という話をたまたま耳にして、とても驚いたこと。
また、両親が参加した松本のクラフトイベントの販売を手伝った際、県外から訪れているたくさんの人が両親の箒に関心を寄せていることを知った時でした。

そして、これまでの実用本位の松本箒に、現在の暮らしにあった工夫を加えることで、自分が松本箒の次の世代を繫いでいけるのではないかと感じはじめました。

米澤さんには、育ち盛りのちいさな三人のお子さんがいましたが、その決意は本物。「食べてはいけない」と、ご両親はしばらく反対したそうですが、持ち前のガッツと明るい性格で課題を一つ一つクリアしていきました。

勝義さんが手掛けるのは伝統的な松本箒。昔ながらの実用主義のつくりとデザインで床屋さんや旅館、スキー場(雪を払い落とす)など、商売や業務用として使っている昔ながらのお得意様が中心です。

これに対し、資修さんが目を向けたのは、現在の住環境にあわせた個人向けの需要でした。一人暮らしにあわせて、取り回しやすい小型ほうきを新たに加えたり、竹の柄は軽くて丈夫だが、経年とともにひびが入ってしまうことがあるため、地元の木工職人さんと一緒に無垢材の柄を採用するなど、松本箒の従来の機能はそのままに、デザインや耐久性を考慮した新しい箒づくりもはじめていきました。

これまで箒は目立たないところに置かれることが多かったと思いますが、お部屋のイメージを損なうことのないシンプルな佇まいに、まずは地元の若い人たちが注目をはじめました。そして、新しい魅力の松本箒の評判が、日本の各地にも広がっていくこととなります。

資修さんはそんな中でも、松本箒の伝統の変えていい部分と、変えてはいけない部分のバランスがむずかしいといいます。そして、これまでもこれからも、その判断基準はいつも隣で作業している勝義さんの存在がとても頼りになっていることでしょう。

今では、長野の伝統工芸品を代表する若き職人の中でもリーダー的な存在としても活躍している資修さん。今年は「俺、箒屋継ぐから」と長男が高校の商業科に進学したのだとか!

これからも『米澤ほうき工房』の活動に目が離せません。

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写真の一部はフォトグラファー疋田千里さんのものを使用しています。

 

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