カゴアミドリ

               

松本で歩み始めた第二幕 ーカゴアミドリ15周年に寄せてー

2025年6月。カゴアミドリのオープンから15年を機に、当店のこれまでの歩みを振り返る取材記事をライターのウィルソン麻菜さんに執筆いただきました。

 
文章:ウィルソン麻菜
写真:小山加奈

 
特急あずさで降り立った松本の空気は、カラリと気持ちよかった。

およそ600mと標高の高い長野県松本市は、東京に比べて太陽が近い。出迎えてくれた征一郎さんと町中を歩くと、いつもより背中に日差しを感じて元気が出てくるようだった。

征一郎さんによれば朝晩はすっきりとした涼しさもあり、東京のような蒸し暑さはあまりないという。

 
かごの専門店・カゴアミドリの伊藤征一郎さんと朝子さんが、娘の茜さんと3人でこの町に移住してきたのは2024年8月のこと。東京都国立市の生活から一転、松本での暮らしと仕事を整えながら今に至る。

お店のオープンから15年。「10周年のときはコロナ禍で、それどころじゃなかった」と振り返るおふたりと、改めて15周年を祝おうと松本へやってきた。

カゴアミドリというお店のこと、それよりももっともっと前のこと。征一郎さんと朝子さん、それぞれの旅路を聞いてみたいと思ったのだ。

 
<目次>
1. 言葉に導かれて社会を見つめた、朝子さんの道
2. 発見と葛藤の日々のなかで考えていたこと
3. 哀愁”がある原風景を持つ、征一郎さんの道
4. 100年前と同じ風に出会うために
5. かごとの出会い
6. ものの向こうに、“あのひと”を見る
7. 豊かさを教えてくれた扉を、次の誰かへ

 
言葉に導かれて社会を見つめた、朝子さんの道

息を弾ませつつ登った丘の先に、伊藤家の住まいがある。西にアルプスの山々、東に美ヶ原高原が見える高台のマンションは、カゴアミドリ松本店からは歩いて15分ほどだ。生活道具や絵、写真集、かご。すべてがほどよく溶け込んだリビングで、お話をうかがうことにする。

外ではじりりと暑かった日差しは、薄手のカーテンを通すと室内をふわり明るく照らしていた。やわらかな光のなか、まずは朝子さんの話を聞いていく。カゴアミドリと縁の深い国立から、彼女の物語は始まる。

 
「地元はずっと国立です。小さい頃から海外への憧れがあって、外の世界はどんなところなのかなとよく考えているような子どもでした」

三姉妹の長女として生まれた朝子さんが、特に好きだったものは言葉。高校の国語教師だった母の影響か、読書や外国語が好きな子どもだった。てっきり文学系の進路を選んだのかと思いきや、大学では社会学を専攻した。

「両親はリベラルな考え方を持っていて、特に社会科の教師だった父とは、戦争や公害などの社会問題について話す機会も多くありました」

一緒にテレビを見ながら「俺はこう思う」と話す父からは、意見が同じではなくとも、社会について考えるきっかけをもらったという。朝子さんも自然と「社会」という広い世界に思いを馳せるようになっていった。

 
「言葉や本への興味はずっとあったので、就活では出版関係の仕事を目指しました。入ったのは翻訳者さんの原稿を納品する仕事で、正直、思い描いていたものとは少し違ったんですけどね」

新卒にかけられる「石の上にも三年」という教えがまだ根強かった時代。朝子さんも「まずは3年」と同じ会社で働き続けた。退職を決めたのは、いよいよ憧れの海外——フランスへ行くためだった。

 
発見と葛藤の日々のなかで考えていたこと

「『海外で生活してみたい』という気持ちが強かったんですよね。当時は留学情報も少なく、いきなり現地の大学に入れるほどの語学力もない。それで語学学校と、せっかくなので好きだったお菓子作りも学ぼうと、製菓の学校に行くことにしたんです」

朝子さんは会社員時代の貯金をすべてつぎ込んでフランスへ飛んだ。目からうろこの落ちるような発見と刺激の多い日々。そのまま製菓の道に進みたい思いもあったが、結果的に胸に小さなつかえを残したまま1年弱で帰国する。

「当時のフランスは、日本よりも激しい貧富の差が目に付いたのを覚えています。私は毎日、超ハイソなエリアで立派なケーキをいくつも作って、食べきれないまま帰ってくる。帰路には治安の悪い地域があったり、物乞いをしている親子がいたりして……」

格差と矛盾を目の前にして、朝子さんを襲ったのは自身の生き方への葛藤だった。今思えばお菓子で社会に貢献する方法もあったかもしれないと振り返るが、当時は「自分にはケーキより前に学ぶべきものがあるのでは」と釈然としない気持ちで帰国した。

 
帰国後の仕事を探すなかで目に入ったのが、政府開発援助(ODA)を担当する商社の仕事だ。日本政府から途上国への支援プロジェクトを受注・履行していく仕事は、朝子さんにまた新しい世界を見せてくれたと話す。

「出張でアジアの国々に行く機会が多く、仕事を学びながらいろいろな国の文化にも触れることができ、充実した日々でした。フィリピンで診療所を建設するプロジェクトでは、帰国前日に徹夜でなんとか提出書類を完成させたものの、翌朝、目が覚めたら帰国便のフライトが出発した時間だった、なんていう事件もありましたが」

一方で、官製の援助のあり方を目にするにつれ、援助とは何だろうという疑問も膨らんでいく。大きなインパクトがある反面、なかなか細かいニーズには答えられない現実に葛藤し、朝子さんはずっと自身の行き先を探し続けていた。

「自分には何ができるのか、20代は暗中模索の日々でした」

30代に入ったころ、関心を持っていた国際医療援助団体の求人を見つけ飛び込んだのも、大きな転機だ。フランス語が応募条件だった広報の仕事。そこには、それまでの価値観が一変するほどの別世界が広がっていた。

「人道援助の現場から入ってくる生の情報は、衝撃的なものでした。頻発する紛争に巻き込まれ、性暴力に苦しめられるアフリカの女性たち、栄養失調や衛生状態の悪さで5歳になる前に命を落としてしまう子どもたち……同じ地球の上で起こっている想像を超える現実に直面したんです。それと同時に、日本ではこれらの事実がほとんど報じられていないことにも驚きました」

西アフリカ・シェラレオーネ 病院支援のプロジェクトを取材(2002年)

 
日本にいると現実味のない惨状が、別の国ではたしかに起きている。その痛いほどの実感を前に、「世界の現状と自分自身をどうつなげられるか」を模索していた朝子さん。この分野で仕事を続けていくつもりだったと話すが、征一郎さんとの出会いで彼女の人生は思わぬ方向へと進んでいく。

 
「地球って、こんなふうにできていたんだ」

同じ大学に通っていた朝子さんと征一郎さんだが、学部も学年も違ったためにほとんど面識はなかった。30代になって共通の友人に誘われた飲み会で、初めてまともに言葉を交わしたという。

「彼は当時パタゴニアという会社で働いていて環境問題に強い関心がありました。私は人道支援の分野がメインで、自然保護活動という視点をあまり持っていなかったので、新しい眼鏡で世の中を見るような新鮮な発見がありました」

 
征一郎さんに出会うまでは、ほとんど山登りもしたことがなかった朝子さん。出会ってすぐに、アメリカの国立公園で3,000メートル近い山を一緒に登り、結婚前にはアラスカの大地を歩いた。征一郎さんをとおして世界を見ることで、自然環境や、さらにその奥にある“生命”にまで思いを馳せることになったと振り返る。

「自然のなかを歩く経験はつらいこともあったんですけど、発見のほうが多かったかな。地球ってこんなふうにできていたんだ……と、初めて地球や生命の根源的なものに触れた感覚があったんです」

圧倒的な自然のなかで、自分の命がここにあるという実感は、改めて朝子さんに“生きること”を考えさせたのかもしれない。森の大木に比べれば短く儚い命でありながら、今を生きている不思議と感謝。その感覚は、朝子さんのなかにずっと残っていくことになる。

2003年9月 アラスカ・キーナイにてバックカントリーキャンプ

アラスカ・デナリ国立公園 いくつもの冷たい川を徒渉する

 
「今、かごを見るときも『この植物はどんなふうに生えていたのかな』と考えてしまいます。人の手が入って生活のための道具になっているけれど、その本来の姿を見てみたい。そう思うようになったのは、自然のなかでの経験が大きいかもしれません」

 
“哀愁”がある原風景を持つ、征一郎さんの道

朝子さんの話を征一郎さんは同じ部屋のなかで静かに、そして時折穏やかに言葉を差し込みながら聞いていた。ここで少し視点を変え、征一郎さんのお話を聞いていく。朝子さんを山へ導き、自身も自然に向き合い続ける征一郎さんの見ている風景は一体、どんなものだったのか。

 
東京生まれ、埼玉育ち。ふるさとは北海道。

征一郎さんに故郷を聞いて「東京」と言われた人も、「北海道」と言われた人もいるかもしれない。朝子さんは「最初は『北海道』と言われた気がする……」と言っていたし、征一郎さん自身も「そのときによって変えているかも」と笑った。ただ、征一郎さんにとっては、どちらも嘘ではない。

母方の実家があった北海道の網走には、長期休みや親戚の集まりでよく行っていた。一年だけ網走の小学校に通った記憶も鮮明だ。オホーツク海に面する小さな港町は、少年だった征一郎さんのなかにたしかな原風景を残した。

「今でもそのままの自然に惹かれるのは、北海道での暮らしがあったからかもしれません。鳥の声が聞こえるうつくしい森よりも、木が立ち枯れしているような哀愁のある自然が好きなんです。特に、川が好きでしたねえ。当時、網走川に面した家に住んでいて、本当にいつまでも川の流れや水中の動きを見つめていました」

『釣りキチ三平』を愛読し、小学校の卒業文集には「北海道大学の水産学部に入って釣りジャーナリストになる」と書いた。同時に、冒険家にも憧れを抱いて新田次郎や星野道夫などの本を読んだ征一郎さんが、アウトドアや山登りに惹かれていったのは自然な流れだったと言える。

 
100年前と同じ風に出会うために

心に北海道の風景を残しながら、中高時代は部活動に明け暮れていた征一郎さん。彼の人生を大きく変えたのは、高校生のときに手にとった一冊のファッション誌だ。

「当時(1980年代後半)のアメリカ西海岸のカルチャーを特集した記事のなか、ページの一番端っこに小さく書いてあったのが『ジョン・ミューア・トレイル』のことでした」

『ジョン・ミューア・トレイル』とは、ヨセミテ国立公園から、アメリカ本土の最高峰マウント・ホイットニーを縦走する340キロメートルもの長距離自然歩道。1900年代に「自然保護の父」と呼ばれるジョン・ミューアがルーズベルト大統領とともに馬を走らせ、自然について語り合い、現在の国立公園や環境保護活動へとつながったとされる場所だ。踏破するのに約1ヶ月かかるこのロングトレイルに、征一郎さんは魅了された。

「日本が文明開化を掲げていた明治の時代に、自然と人の共生を訴え行動している人がいたことにとても驚いて、その時からずっと、いつか歩いてみたいと思っていたんです」

 
憧れのトレイルを歩くことを目標にしながら、国内外で山登りやキャンプの経験を積んだ。ようやくジョン・ミューア・トレイルの地を踏んだのは、30歳のときだ。会社勤めで1ヶ月の有給休暇は取れないため、二年に分けて歩き切った。

「1年目は余裕がなくて、距離を稼ぐことが目的になってしまいました。2年目は休息日をもうけて、釣りを楽しんだり、道中を楽しむ旅に切り替えられたのはよかったですね。トレイルが整備された歴史に思いを馳せて歩くことができました」

ジョン・ミューア・トレイル 森林限界を超えると絶景がつづく

 
カリフォルニア以外にも、征一郎さんは世界各地のトレイルを歩きながら歳を重ねた。なかでもアラスカには10回以上訪れ、自転車旅行やデナリ山の遠征にも挑戦した。

できるだけ人の手が加えられていない場所や、ありのままの自然へ分け入っていく。野生動物が暮らす森で眠り、太古から続く自然の営みを感じることができる時間が、征一郎さんの心を震わせたという。

「僕が感動するのは、人がいない場所に辿り着くことなのかもしれません。町の明かりも見えず、人が通った形跡もない道なき道を進む。その先に100年前とも変わらぬ景色が広がっているかもしれないことを思うと、とても感動します。そこに吹く風も、100年前と変わらないような気がして」

 
常に、野生動物との遭遇や、水や食糧の心配をしながら、蚊の大群に襲われながら歩く。怪我や病気になることだってあるかもしれない。街の暮らしでは感じることがない、かつて生きるために必要だった感覚。朝子さんも感じた自分の命の存在を、征一郎さんは自ら確認するために山へ行っているようにも見える。

「怖がりなんですけどね、基本的に」と微笑んだあと、「でも、その恐怖をどうやって克服していくかを考えながら進むのが、一番の楽しみなのかもしれません」

 
仕事を通じて社会を変えるには

海外の自然に魅せられた征一郎さんは、それまで勤めていたアウトドアショップを29歳のときに退職。アラスカを自転車で3ヶ月間めぐり、帰国後は北海道で酪農のボランティアを経験した。年末に自宅に戻る前に立ち寄った札幌で、パタゴニアの求人募集を見つけたという。

アウトドア衣料の製造、販売を展開するパタゴニアは「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という理念に現れているとおり、環境問題に積極的に取り組む企業。会社全体で一丸となってビジネスで環境問題に向き合う経験は、今の伊藤さんを形作った原点のひとつと言える。

「やりがいのある仕事と、価値観を共有できる仲間に恵まれた理想的な職場でした。『ビジネスを手段として社会問題を解決する』という企業理念を自分自身の言葉でちゃんと説明できるようになったのは、入社して数年が経過してからのことだったと思いますが」

社員一人ひとりが受け身ではなく、主体的に行動することを大切にする企業風土で働くうちに、征一郎さんにある考えが浮かぶようになる。それが組織から離れ、“個人”として働くことだった。

「マネジメントする立場になってからはチーム作りも役割の一つだったのですが、同時に、『この組織の一員ではなくなったとき、自分は社会に対し何ができるんだろう』と考えるようにもなったんです。ちょうど娘が生まれて、次世代への責任についても意識しはじめた頃でした。この場所で学んだことを、別のどこかで活かすタイミングなのかなって」

 
征一郎さんがパタゴニアに入社してから10年経った、2009年の冬。征一郎さんと朝子さんは、それぞれの職場を退職し、ふたりでかねてより計画していた店づくりに向けて動き出した。朝子さんの軸となっている人道支援と、征一郎さんの伝えたい環境保護と、それぞれの価値観を表現できる店へ。いよいよ、カゴアミドリの誕生へ。

 
ふたりの思いを乗せられる「かご」との出会い

「お昼を食べてから、店へ移動しましょうか」

定期的にモーニングやランチを食べに行くというお気に入りの店「山山食堂」に連れて行ってくれるふたりは、もうすっかり“松本の人”という感じがする。店内では登山や旅に関する書籍や地元作家の作品を紹介していて、情報交換の場にもなっているそう。

 
カゴアミドリの2つ目の店を松本に出したい——。征一郎さんがそう考えるようになったのは、コロナ禍の2021年の冬だった。

「開店当時からずっと続けてきた産地訪問が、一切できなくなったのがつらかったですね。海外はもちろん、家族ぐるみでつきあいのあった作り手さんを訪ねることができないかもしれない。それなら、逆に産地に近づいてお店をできないかと考えたんです」

生活スタイルが大きく変わる2号店の出店を、家族はすんなりと受け入れた。

東北や九州の産地も候補に挙がったが、元々、登山でよく訪れていた松本には知人も多く、竹細工や箒の産地としてのつながりもあった。地域での自然保護活動にかかわっていきたいという思いも自然豊かな松本の地につながり、着想から半年も経たずにオープンにこぎつけた。

そうして生まれた松本店のなかで、今度は征一郎さんと朝子さんのおふたりに「カゴアミドリ」の話を聞いていく。

 
2010年1月、年末に仕事を辞めたふたりはヨーロッパにいた。氷点下の街中を3歳の娘を乗せたベビーカーで進みながら、ドイツ、ベルギー、オランダ、フランスを1ヶ月かけて周ったのだ。「チョコレートの試食ばかりしていました」と朝子さんが笑う。

「当初は『世界のエシカルな食品や生活道具を集めた店をやろう』と考えていて、「フェアトレードタウン運動」がさかんなヨーロッパへ視察に行ったんです。どの国でもスーパーやコンビニで当たり前のようにフェアトレードの商品が並んでいて、そうそう、こういうのがやりたかった……と思う一方で、大手小売店がやっていることを自分がやる意味を考えた旅でした」

ヨーロッパを視察旅行中。ビジネスモデルを探す旅だったが、なかなかその答えは見つからなかった。

 
個人経営だからこそできる店の形を模索したい。アイディアを見つけに行ったはずのヨーロッパで、方向性は一度白紙へと戻った。商品の品ぞろえだけではなく、現地の作り手と信頼を築きながら、自然保護にもつながる取引ができる方法はないだろうか——。

最初にかごの存在と魅力に気づいたのは、征一郎さんだった。世界各国のフェアトレード団体の活動を調べているうちに、いろいろな国に「かご」があると気づいたのだ。

「かごは、数千年前から人の暮らしに欠かせない身近なもので、大きく変わったことといえば、作るための道具が石器から鉄器に変わったくらい。身近な植物を必要な分だけ採取して形を変えることで、さまざまな用途に使用してきました。

近代化や経済発展とともに多くが消失してしまいましたが、伝統を大切にする自然豊かな地域に残っている手仕事です。そして、日本に目を向ければ、代々受け継がれてきたかごづくりの技術は、各地で存続の危機に瀕していました」

 
世界各地のかごについて学ぶほど、かごを販売することがやりがいのある仕事だとの想いを強めていったふたり。

「この世界の今の状況は、僕たちの“仕事選び”でできていると思っているんです。ビジネスによって自然環境が壊され続けている今、それとは逆方向の自然と折り合いをつけていく仕事を広めていきたい。かご作りはまさに、そういった仕事だと思っています」

定期的にかごを仕入れることで、作り手は材料を採りながら山や森を育てていくことができる。また、専門店を継続していくことができれば、自然とともにある生業を選ぶ人が増えるかもしれない。さまざまな循環に期待しながら、ふたりはアジアやアフリカ、中東、中南米のフェアトレード団体や、国内の産地を巡りつながった作り手を訪ね、6月の終わりにオンラインショップをオープンした。


 
ものの向こうに、“あのひと”を見る

「僕たちはかごを、人の魅力で見ている面があると思います。精巧なものをつくる技術だけではなく、その人の生き方や考えに共感できるかも大切にして、お取引をしています」

ふたりがカゴアミドリを始めてからずっと大切にしてきたルール。それは、現地に足を運んで作り手に直接会い、可能であれば一緒に山に入るなど時間を共有することだ。取引先のほとんどが個人の作り手であるカゴアミドリでは、ただの仕入先としてではなく“人と人との関係作り”を続けてきた。

その大きな原点のひとつには、2011年3月11日に起きた東日本大震災がある。

当時、取り扱っていた国内製品の半分は東北地方のものだった。心配で各地の作り手に連絡を取るなか、岩手県の沿岸部に住んでいるベテランの竹細工職人さんと連絡が取れず、避難所を調べて名前を探した。彼は長い避難生活のあとに家に帰ることができたが、親族が津波の被害にあわれていたことを知り、言葉を失ったという。

「かける言葉もなくて……。すでに80代のご高齢だったので、かご作りはやめてしまうかもしれないと思っていました。すると、1ヶ月も経たずに山ほどのかごが届いたんです。『自分だけ落ち込んでいるわけにいかないから』と言いながら作ってくれて、カゴアミドリで売ってくださいと。購入してくれたお客様には、作り手がどんな状況で作ったものなのか、できるだけ伝えてお渡ししました」

 
かごを作っている人たちの生活や想い、彼らが日々を生きているということ。征一郎さんと朝子さんの話を聞いていると、それを感じずにはいられない。かごを作るのに作り手が命と時間をかけていることを、ふたりが実感しているからだろう。

「その人の生活も家の事情も丸ごとわかるような関係で、訪問から帰ってきても彼らのことがしばらく頭から消えない。そういう付き合いも多いですよね。届いたかごの匂いで、彼らの暮らしが浮かんでくることもしょっちゅうなんです」

征一郎さんが誰かを思い出すように話すと、朝子さんも続ける。

「素材の採取について行かせてもらうのは、自然のリズムにあわせた仕事と暮らしぶりを一緒に感じたいからなのかなと思います。人の都合だけではかごづくりは進まないことや、その都度時間をかけて生み出したものを送り出す作り手さんたちの気持ちが想像できるから。その手間暇をちゃんと理解して受け取りたいし、お客さんにも伝えたいと思っています」

秋の紅葉とともに、あけび蔓の採取シーズンがはじまる

樹々が水分を多く取り込む初夏の時期に樹皮を剥ぐ

 
世界の豊かさを教えてくれた扉を、次の誰かへ

一つひとつ丁寧にかごを販売してきたカゴアミドリは、2025年で15周年を迎える。実はこれまで、ここに綴ってきたような店づくりへの思いは、ほとんど語ってこなかった。自分たちの価値観よりも、かごとその向こうに広がる世界について伝えることを大切にしてきたという。

「環境破壊や社会問題といった言葉を使えば、同じ意識を持つ人や、共感してくれるお客様がもっと多く来てくれるかもしれません。でも、これから気づいたり、関心を深めていく立場の人とつながれたら、世の中はもっと変わっていけると思うんです」

かごを部屋に置くだけで、なんだかふわりと木の香りがするとか。編み目の違いから「これは作り手が違うのかな」と思うとか。本来は魚を運ぶためのかごだったと聞いて、当時の生活を想像したりだとか。与えられる知識より、自分で気づいた小さなきっかけが、大きな変化を生むとふたりは感じているのだ。

 
「国立での15年間は、自分たち自身が“消費の在り方を考えるきっかけの場”だったと思います。誰も傷つけず、自然も汚さないものを選んでお金を使う選択肢を提示したかった。そこから今は、お金の稼ぎ方——誰かの仕事の選択肢を広げるきっかけになれたらと考えるようになってきたんです」

「買い物は投票」という言葉が一般的になってきた昨今、次はその投票に使うお金を生み出す“仕事そのもの”、つまり「職業観」を変えていくことはできないだろうか。それがふたりの次の目標になった。

そして、これまで出会ってきたかごの作り手や箒職人、わら細工職人たちは、まさに社会の流れや「物質主義」に飲み込まれず、自然とともに強く生きる人々だった。

「僕らが出会った、自然に寄り添い豊かに暮らしている世界中の作り手たちのことを話したい。それが誰かの仕事を変えるきっかけになるかもしれないし、仕事選びの基準が少しでも変われば、社会も変わっていくと思っています。あと10年お店を続けられたとして、5人くらいの人生に影響を与えられたら嬉しいですね」

いつもあたたかく迎えてくれる蒜山蒲細工生産振興会のみなさん(岡山県・真庭市)

 
朝子さんにも未来の話を聞いてみると、彼女らしい返答が返ってきた。

「今までは作ってもらったかごを集めて売るという形でしたが、いずれは作り手さんと一緒にものづくりをしたいんです。あとは、私たちが伝えたいことを本にして届けてみたいですね。なにか、形に残していく段階に入ってきた気がしています」

これまではかごの販売やイベントを通してじっくりと伝えてきたことを、今度はものづくりや文章など、ツールを増やして届けていく。登りたい山の頂上がハッキリしているふたりには、ルートはいくつあってもいい。

「かごに出会えて本当によかったと思っています。かごという扉を一枚開くと、また次の扉がそこにはあって、想像以上にいろいろな世界が広がり、自分を豊かにしてくれました。この奥深い扉を開くきっかけを、たくさんの人に届けていきたいです」

朝子さんの言葉を聞いて、征一郎さんも頷いた。
 

 

松本の町中に湧き出る地下水を飲むと、歩いて汗をかいた身体に冷たい水がすうっと馴染んでいく。川の流れをBGMにして、改めて「松本、どうですか?」と聞いてみる。

「お店に来てくれる人の幅が広くなった気がします。地元の作り手の方はもちろん、大学生や若い人がふらっと入ってきてくれたり、林業や農業に携わる方もかごづくりの背景に興味を持ってくれたり。愛情を持ってこの町を育んできた方々の存在を感じるから、私たちもここに根付いてその一端を担っていけたらなと思っています」

東京よりも自然や作り手に近づいた松本での暮らしは、征一郎さんと朝子さん、カゴアミドリの第二幕なんだろうと感じた。多くの人が暮らす歴史ある町でありながら、新しい文化への懐も深い町。緑や水が身近で、空がとても近いこの場所には、ふたりが愛する自然も人も、ちゃんと存在している。

この町でも、きっとふたりは道なき道を進みながら「私たちにできること」を探し続けていくのだろう。100年後も変わらない、いや、今よりももっと気持ちのいい風を求めて。


<この記事を書いた人>

ウィルソン麻菜
物の向こう側を伝えるライター。商品やサービスが作られる背景を伝えるために文章を書き始め、現在は属性や国境などを超えた「向こう側にいる人」を伝えることで、社会がもっと近く、平和になると信じて文章を書く。インタビュー記事やサイトテキストの執筆のほか、”自分の言葉”を探す人の伴走サポート、個人向けインタビュー「このひより」として活動中。届けたい相手を一緒に考え、言葉を重ねていくやりとりが好き。

カゴアミドリとつながりのある作り手の記事も、これまでに多数執筆。

◎わら細工と生きる(わら細工たくぼ) >https://x.gd/Ln2b7
◎箒をつくる人たち > https://x.gd/DzFF2

Instagram: @mwilson5629

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