【宮古の横田かご 1】港で活躍する魚かご

国内有数のさんまの漁獲量で知られる岩手県・宮古の漁港で、
魚の運搬に活躍していた「横田かご」。

その全盛期は、昭和の前半のことでした。
地元では「万丈(ばんじょう)かご」ともよばれ、三陸の漁業が盛んな
地域では必要不可欠なものでした。

終戦後に漁業が成長期を迎えるとともに、宮古で竹細工店を営んでいた
鈴木利雄さんの家には大量の注文が入り、十数人もの職人さんを抱えて
大忙しの毎日を過ごしていたそうです。

周辺には、当時13軒もの竹細工店がしのぎを削り、年間1万5千個以上の
横田かごを港に供給していた時代でした。

父が営む竹細工店の長男だった鈴木さんがその跡を継いだのは、
ごく自然な流れだったといいます。まだ10代の後半だった一人の青年は、
父の働き方や、寝食をともにするベテランの職人さんの技をよく観察し、
一人前の職人になっていきました。

 当時の注文台帳。

職人としてのノルマは、一日で最低7個の横田かごをつくること。
作業は一本の竹を割ることからはじまるので、漁の最盛期が近づいてくると
明け方から夜中まで仕事が続いたそうです。

大型冷蔵庫用のかご、加工場での塩ふりかご、
はえなわやカジキ漁、アナゴの仕掛けかご、
畜産業者からの「ぶたかご」の注文も。
横田かごに限らず、さまざまなかごの需要がありました

 

 職人さんたちと

しかし、昭和の40年代に入るとプラスチック製品の台頭によって需要は激減。
一緒に働いていた職人たちも他の仕事を求め、姿を消していきました。

最後に残った鈴木さんも家族を養うため、会社勤めをはじめるのですが、
かご職人としての仕事を完全に手放すことについては、その後も抵抗を
続けていきます。

日中の会社勤めが終わると、夜中まで竹籠をつくり、夫婦で行商を続ける
生活がはじまりました。港での需要は無くなってしまいましたが、農作業や
山仕事で必要とする人々がまだいると思ったのです。
そこで、週末になると農村部まで足を運び、「横田かごはいりませんか?」
と、一軒一軒農家さんを訪ねてまわるようになりました。

それまでは、かごづくり一辺倒だった鈴木さんでしたが、
「自分のかごを使ってくれる人と、直接話せることが楽しくて楽しくて。
いろいろ苦労した時代だったけど、毎日充実していて、一番楽しかった
時期かもしれないなあ。」
と笑って話してくれました。

当時は、サンマをまとめて買うと一緒についてくるような存在だった
こともあり、地元ではあまり愛着をもって使う人がすくなかったのだと
思います。

そう考えると、野菜の収穫や運搬に、かごを愛用する農家さんたちとの
直接の触れ合いは、これまで鈴木さんがあまり経験したことが無かった
作り手としての喜びを、あらたに感じた時間だったのかもしれません。

元祖横田かごはこの大きさ
縁巻きには針金を使っていました。

さて、当時の横田かごといえば、東北では貴重とされる材料の真竹を無駄なく
使用するため、竹の内側(肉)も使う特徴があります。
表面の皮だけを使用する現在のタイプは、鈴木さん曰く「高級・特別仕様!」
ということになります。

そして、なぜ「横田」という名前なのかというと、陸前高田市の内陸部に横田と
いう地名があり、ここが質のよい竹の産地だったことがその名の由来になった
のではと思われます。
(11/8 追記: 陸前高田では、主にわかめの収穫に使用していたという、
お客様からの情報もいただきました)

【宮古の横田かご 2】鈴木利雄さんとの出会い  につづく

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